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藤原範兼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原 範兼
時代 平安時代末期
生誕 嘉承2年(1107年
死没 永万元年4月26日1165年6月6日
別名 岡崎三位
官位 従三位刑部卿
主君 崇徳天皇近衛天皇後白河天皇二条天皇
氏族 藤原南家貞嗣流
父母 父:藤原能兼、母:高階為賢の娘
兄弟 範兼範季
源俊重の娘
範光俊季範重重季経顕経兼範子兼子藤原伊実室、藤原家輔室 
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藤原 範兼(ふじわら の のりかね)は、平安時代末期の公家歌人藤原南家貞嗣流、式部少輔藤原能兼の長男。官位従三位刑部卿

経歴

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天治2年(1125年白河院昇殿を許されると、翌大治元年(1126年鳥羽院院蔵人に補せられる。大治3年(1128年文章得業生となり、大治6年(1131年)正月に対策に及第し8月に叙爵されるが、この間に蔵人左衛門尉も務めた。

献策により保延3年(1137年)従五位上、康治2年(1143年正五位下と昇進し、康治3年(1144年式部少輔に任ぜられる。その後も、久寿2年(1155年東宮・守仁親王の東宮学士、久寿3年(1156年大学頭と学者としての官職を歴任した。後白河院政期に入ると、保元2年(1157年従四位下、保元3年(1158年)正月に従四位上と俄に昇進し、同年8月に守仁親王が践祚二条天皇)すると、12月に範兼は東宮学士の功労により正四位下に叙せられている。

応保2年(1162年)大学頭から刑部卿に遷り、翌応保3年(1163年)以前の東宮学士の功労により従三位に叙せられ公卿に列した。なお、東宮学士の功労により二度も叙位を受けたのは非常に珍しいことであったという[1]

永万元年(1165年)2月11日に出家し、4月26日に入滅した。享年59。

人物

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勅撰歌人として、『千載和歌集』(5首)以下の勅撰和歌集に20首が採録されている[2]。『和歌童蒙抄』『五代集歌枕』『後六々撰』の和歌に関する編著書がある。漢詩人でもあり、『和漢兼作集』に漢詩作品が採られている[3]

官歴

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注記のないものは『公卿補任』による。

系譜

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父・能兼が保延5年(1139年)に死去すると、残された10歳の弟範季を引き取って養子とした。範兼が永万元年(1165年)に没すると、残された幼い子供達は範季に引き取られて養育された。範季が高倉天皇の第4皇子・尊成親王の乳母父となった事から、範兼の娘の範子・兼子らも乳母として親王に仕え、尊成親王の即位(後鳥羽天皇)ののちは権勢を振るった。

脚注

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  1. ^ 『公卿補任』
  2. ^ 『勅撰作者部類』
  3. ^ 『日本大百科全書ニッポニカ』
  4. ^ 『長秋記』

参考文献

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  • 角田文衞 『平家後抄〈上〉落日後の平家』 講談社学術文庫 2000年(1981年刊行)。
  • 『日本大百科全書ニッポニカ』小学館、1993年