藤原範兼
| 時代 | 平安時代末期 |
|---|---|
| 生誕 | 嘉承2年(1107年) |
| 死没 | 永万元年4月26日(1165年6月6日) |
| 別名 | 岡崎三位 |
| 官位 | 従三位、刑部卿 |
| 主君 | 崇徳天皇→近衛天皇→後白河天皇→二条天皇 |
| 氏族 | 藤原南家貞嗣流 |
| 父母 | 父:藤原能兼、母:高階為賢の娘 |
| 兄弟 | 範兼、範季 |
| 妻 | 源俊重の娘 |
| 子 | 範光、俊季、範重、重季、経顕、経兼、範子、兼子、藤原伊実室、藤原家輔室 |
藤原 範兼(ふじわら の のりかね)は、平安時代末期の公家・歌人。藤原南家貞嗣流、式部少輔・藤原能兼の長男。官位は従三位・刑部卿。
経歴
[編集]天治2年(1125年)白河院の昇殿を許されると、翌大治元年(1126年)鳥羽院の院蔵人に補せられる。大治3年(1128年)文章得業生となり、大治6年(1131年)正月に対策に及第し8月に叙爵されるが、この間に蔵人左衛門尉も務めた。
献策により保延3年(1137年)従五位上、康治2年(1143年)正五位下と昇進し、康治3年(1144年)式部少輔に任ぜられる。その後も、久寿2年(1155年)東宮・守仁親王の東宮学士、久寿3年(1156年)大学頭と学者としての官職を歴任した。後白河院政期に入ると、保元2年(1157年)従四位下、保元3年(1158年)正月に従四位上と俄に昇進し、同年8月に守仁親王が践祚(二条天皇)すると、12月に範兼は東宮学士の功労により正四位下に叙せられている。
応保2年(1162年)大学頭から刑部卿に遷り、翌応保3年(1163年)以前の東宮学士の功労により従三位に叙せられ公卿に列した。なお、東宮学士の功労により二度も叙位を受けたのは非常に珍しいことであったという[1]。
永万元年(1165年)2月11日に出家し、4月26日に入滅した。享年59。
人物
[編集]勅撰歌人として、『千載和歌集』(5首)以下の勅撰和歌集に20首が採録されている[2]。『和歌童蒙抄』『五代集歌枕』『後六々撰』の和歌に関する編著書がある。漢詩人でもあり、『和漢兼作集』に漢詩作品が採られている[3]。
官歴
[編集]注記のないものは『公卿補任』による。
- 天治2年(1125年) 9月:院昇殿
- 大治元年(1126年) 4月:新院蔵人
- 大治3年(1128年) 8月1日:穀倉院学問料。12月29日:秀才
- 大治4年(1129年) 正月21日:越後少掾
- 大治5年(1130年) 正月8日:六位蔵人
- 大治6年(1131年) 正月11日:策試。正月12日:判。正月22日:左衛門尉。8月9日:従五位下(無品善子内親王未給)[4]
- 保延3年(1137年) 正月5日:従五位上(策)
- 康治2年(1143年) 正月6日:正五位下(策)
- 康治3年(1144年) 正月24日:式部少輔
- 天養2年(1145年) 正月26日:兼出雲権守
- 久寿2年(1155年) 11月27日:兼東宮学士(東宮・守仁親王)
- 久寿3年(1156年) 2月2日:兼大学頭
- 保元2年(1157年) 正月24日:兼越前介。12月17日:従四位下(策)
- 保元3年(1158年) 正月6日:従四位上(申請修造大学寮廟倉)。8月11日:止学士(践祚)。12月17日:正四位下(坊官)
- 保元4年(1159年) 正月29日:兼佐渡守(使巡)
- 永暦元年(1160年) 正月21日:兼近江守
- 永暦2年(1161年) 正月23日:以近江守譲弟範季
- 応保2年(1162年) 7月17日:刑部卿、元大学頭
- 応保3年(1163年) 正月5日:従三位、卿如元(坊官賞両度、希代例也)
- 永万元年(1165年) 2月11日:出家。4月26日:入滅
系譜
[編集]父・能兼が保延5年(1139年)に死去すると、残された10歳の弟範季を引き取って養子とした。範兼が永万元年(1165年)に没すると、残された幼い子供達は範季に引き取られて養育された。範季が高倉天皇の第4皇子・尊成親王の乳母父となった事から、範兼の娘の範子・兼子らも乳母として親王に仕え、尊成親王の即位(後鳥羽天皇)ののちは権勢を振るった。