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'''桜井 吉晴'''('''さくらい よしはる'''、生没年不詳)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将、越後上杉家臣。通称・三介、三助。名を晴吉とするものもあるが誤記か。
'''桜井 吉晴'''(さくらい よしはる、生没年不詳)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将、越後上杉家臣。通称・三介、三助。名を晴吉とするものもあるが誤記か。


[[越後国]][[魚沼郡]]広瀬の地侍。
[[越後国]][[魚沼郡]]広瀬の地侍。
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家督は慶長10年(1605年)に嫡子[[桜井勘左衛門|勘左衛門]]の次男[[桜井義直|義直]]が継いでいる。
家督は慶長10年(1605年)に嫡子[[桜井勘左衛門|勘左衛門]]の次男[[桜井義直|義直]]が継いでいる。



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2008年12月2日 (火) 01:48時点における版

桜井 吉晴(さくらい よしはる、生没年不詳)は、戦国時代の武将、越後上杉家臣。通称・三介、三助。名を晴吉とするものもあるが誤記か。

越後国魚沼郡広瀬の地侍。

天正6年(1578年御館の乱では上杉景勝を支持し、佐藤平左衛門らとともに広瀬城を守備し、翌天正7年(1578年)には下倉城に進軍して武功を挙げる。以後も平左衛門らとともに下倉城や栃尾城を牽制した。天正10年(1582年)からは越中に転戦し、天正12年(1584年根知城に配された。慶長3年(1598年会津移封後は檜原城に在城、慶長6年(1601年米沢移封後は260石を領した。

家督は慶長10年(1605年)に嫡子勘左衛門の次男義直が継いでいる。