「ラヌッチョ2世・ファルネーゼ」の版間の差分
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*テレーザ(1665年-1702年) メルテン公グスタフ2世妃 |
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2008年6月19日 (木) 04:36時点における版
ラヌッチョ2世・ファルネーゼ (Ranuccio II Farnese, 1630年9月17日 - 1694年12月11日)は、パルマ及びピアチェンツァ公。
5代パルマ公オドアルド1世と妃マルゲリータ・デ・メディチの長男として生まれた。父の死後2年間、叔父フランチェスコ・マリーア・ファルネーゼと母の2人が摂政をつとめた。
オドアルドの治世の間、パルマはカストロ戦争に巻き込まれ、ウルバヌス8世の属するバルベリーニ家が得ようとしたローマ北部の教皇領を獲得した。
1649年、ウルバヌスの後継インノケンティウス10世は、ラヌッチョ2世をクリストフォロ・ジアルダ枢機卿殺害犯として告発した。その報復に、教皇軍はファルネーゼ家の都市を2ヶ月にわたって包囲し破壊し尽くした。8月にパルマ軍はボローニャから遠くない地点で鎮圧した。彼は金で買い戻そうとしたが、教皇領はパルマに残らなかった。
彼の治世の晩年、パルマは、神聖ローマ帝国軍のひどい駐留に苦しめられ、ヴィットーリオ・アメデーオ2世とフランスの間で論争となった。
家族
1660年、マルゲリータ・ディ・サヴォイア(ヴィットーリオ・アメデーオ1世の娘)と結婚。1663年に第2子を出産し産褥死した。子供2人は夭折した。
1664年、イザベッラ・デステ(フランチェスコ1世・デステの娘)と結婚。3子をもうけた。
- マルゲリータ・マリーア(1664年-1718年) フランチェスコ2世・デステ妃
- テレーザ(1665年-1702年) メルテン公グスタフ2世妃
- オドアルド2世(1666年-1693年) 公世子。父親より先に死去。エリザベッタ・ファルネーゼの父。
1668年、マリーア・デステ(先妻イザベッラの妹)と結婚。7子が生まれたが成人したのは2人だけである。
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