「マーケット・ガーデン作戦」の版間の差分

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南部のアイントホーフェン地区に降下した[[マクスウェル・D・テイラー]]率いる[[第101空挺師団 (アメリカ軍)|米第101空挺師団]]は、ドイツ軍の抵抗にはほとんど遭遇せず、容易にフェフヘルの小さな橋を占拠した。しかし一方ゾンではドイツ軍の対戦車砲の前に進撃が遅れていた。同日遅く独第15軍の攻撃で米軍は撃退され、部隊はゾンの南へ退避した。
南部のアイントホーフェン地区に降下した[[マクスウェル・D・テイラー]]率いる[[第101空挺師団 (アメリカ軍)|米第101空挺師団]]は、ドイツ軍の抵抗にはほとんど遭遇せず、容易にフェフヘルの小さな橋を占拠した。しかし一方ゾンではドイツ軍の対戦車砲の前に進撃が遅れていた。同日遅く独第15軍の攻撃で米軍は撃退され、部隊はゾンの南へ退避した。


ナイメーヘン地区には米第82空挺師団が降下した。町の南東に第505および508連隊、南部に504連隊が降下している。フラーフェの近くに降下した小グループはマース川にかかる橋の確保に成功した。しかしシュトゥデントが編成したドイツ軍防衛線は空挺作戦における降下地点の重要性を知悉しており、ナイメーヘン東部のフロースバークの丘を執拗に圧迫し、米第82空挺師団の主力は同日中、丘の防衛に終始することとなった(師団司令部やブラウニング中将の作戦司令部、そして師団の降下地点でもあるため、丘を奪われるわけにはいかなかった)。そのため橋を確保する試みは連絡の不良もあり同日遅くまで行われず、ナイメーヘン橋は依然ドイツ軍の手にあった。
ナイメーヘン地区には米第82空挺師団が降下した。町の南東に第505および508連隊、南部に504連隊が降下している。フラーフェの近くに降下した小グループはマース川にかかる橋の確保に成功した。しかしシュトゥデントが編成したドイツ軍防衛線は空挺作戦における降下地点の重要性を知悉しており、ナイメーヘン東部のフロースバークの丘を執拗に圧迫し、米第82空挺師団の主力は同日中、丘の防衛に終始することとなった(師団司令部やブラウニング中将の作戦司令部、そして[[橋頭堡|空挺堡]]すなわち師団の補給降下地点でもあるため、丘を奪われるわけにはいかなかった)。そのため橋を確保する試みは連絡の不良もあり同日遅くまで行われず、ナイメーヘン橋は依然ドイツ軍の手にあった。


北部アーネム地区に降下した英第1空挺師団の空輸は滞りなく行われたが、運悪くグライダーに搭載されている偵察ジープは降下の時点で半数以上が失われ、残りはアーネムへの先導をしている途中で待ち伏せにあった。したがって、アーネムの橋を確保するただ一つの可能性は徒歩であった。さらに、輸送機の不足から師団全兵力の輸送は行われず、初日に降下したのは第1パラシュート旅団と第1グライダー旅団のみであった。第1パラシュート旅団はアーネムの橋の確保を担当し、第1グライダー旅団は翌日の残余部隊(第4パラシュート旅団および第1グライダー旅団)のための降下予定地確保を担当することとなった。
北部アーネム地区に降下した英第1空挺師団の空輸は滞りなく行われたが、運悪くグライダーに搭載されている偵察ジープは降下の時点で半数以上が失われ、残りはアーネムへの先導をしている途中で待ち伏せにあった。したがって、アーネムの橋を確保するただ一つの可能性は徒歩であった。さらに、輸送機の不足から師団全兵力の輸送は行われず、初日に降下したのは第1パラシュート旅団と第1グライダー旅団のみであった。第1パラシュート旅団はアーネムの橋の確保を担当し、第1グライダー旅団は翌日の残余部隊(第4パラシュート旅団および第1グライダー旅団)のための降下予定地確保を担当することとなった。

2007年10月26日 (金) 14:26時点における版

イギリスの飛行場におけるC47の隊列
第1空挺軍の降下 1944年9月

マーケット・ガーデン作戦(Operation Market Garden)は、第二次世界大戦中の1944年の9月に行われた連合軍の作戦。連合軍がドイツ国内へ進撃するのに大きな障害であるオランダ国内の複数の河川を越えるために、空挺部隊を使用して同時に多くの橋を奪取する作戦であった。

作戦は途中のナイメーヘンのライン橋の占領までは成功したが、アーネム(アルンヘム)での最後の橋は英軍の第1空挺師団が壊滅するなど大損害を受けたために奪取できず、作戦は失敗に終わった。

背景

1944年8月、ノルマンディー・ファレーズにおいてドイツ軍に大打撃を与えた連合軍は、それまでの停滞した戦線と異なり急速な進撃を開始した。8月25日にはパリを奪還、9月4日にはイギリス第21軍集団揮下のカナダ第1軍がベルギーアントワープを奪還していた。

この進撃速度は計画を大幅に上回るものであった。当時の連合軍の補給物資はコタンタン半島の先端の港湾シェルブールかノルマンディーの上陸地点を経由しており、イギリス海峡に面した他の重要な港湾は、撤退が間に合わず取り残されたドイツ軍が占拠しているか(ダンケルクなど。ダンケルクは1945年5月のベルリン陥落までドイツ軍が残存した)、あるいは撤退するドイツ軍によりクレーンなどの港湾施設が破壊され荷揚作業ができない状態にあった。連合軍の各部隊はその補給路の長さから来る燃料・物資の不足に悩まされることとなり、9月初旬には連合軍の進撃が停止する。このためイギリス海峡に面した港湾を確保し、新しい補給路を構築することが早期進撃再開のために必要と考えられた。アントワープは世界有数の良港であり、クレーンなどの港湾設備が残存していたため、連合軍にとってイギリス海峡に面した新たな補給拠点になる重要な候補であった。しかし港湾設備の大半はシェルト川を遡上した内陸にあり、内水への航路上には水上機雷が敷設されており掃海の必要があった。唯一利用可能な河口域(オランダ領)の港湾施設はドイツ軍が排除されておらず、港湾としての機能が果たせない状態にあった。河口域南岸のドイツ軍残存部隊にはカナダ第一軍が掃討作戦を展開中であったが、北岸のドイツ軍は手付かずの状況にあり、この地域のドイツ軍を残存させることはアントワープ港の完全開放にとってはやっかいな問題であった。

連合軍、特にイギリス第21軍集団司令官バーナード・モントゴメリー元帥は、ベルギー・オランダ方面に戦力を集中し迅速なドイツ国内への進撃を行うことが、ドイツを打倒するために最適であると考えていた。ラインの下流域でドイツ国境を突破し、ルール工業地帯を打通することでドイツの継戦能力を破壊すること、これがモントゴメリーの主張であった。これにはモントゴメリーと連合国部隊内における一番乗り競争に絡む名誉の問題、あるいはイギリスは戦争における人的資源の消耗が激しく、早期の戦争終結を求めていたことが判断の根底にある。この作戦が成功すればクリスマスまでに戦争は終結する。ただし、モントゴメリーには迅速な作戦遂行の経験が少ないこと、攻撃正面が狭く進撃部隊が比較的小規模になりドイツ軍からの反撃が予想されることから、連合軍内部で反対にあっていた。特に連合軍総司令官アイゼンハワー将軍は、ベルギー・オランダ方面だけではなく全戦線で攻撃をかけることにより、ドイツ軍からの反撃をおさえる方法を主張していた。そこで総司令部はモントゴメリーに対して、当初シェルト川河口域北岸のドイツ軍駐留部隊の排除のみを要求していた。

折りしも、9月8日にV2ロケットによる初のロンドン攻撃が開始され、事態は大きく変化する。このV2ロケットは当時の技術では迎撃不可能であった。そのため、この発射を阻止するためには発射基地を破壊する必要があり、確実な発射阻止・ロンドンへの着弾阻止のために発射拠点と見られるオランダ地区を奪還する必要が生じた(なおV2に関する技術情報は事前に入手されていたことから、この推測には相応の妥当性があり、また確かに結果としてV2はハーグを中心としたオランダ地区から発射されていた)。

9月9日、連合軍総司令部はオランダの奪還を決断した。作戦地域には多くの河川があり、迅速な進撃のためには橋梁の確保が必須条件である。複数の橋梁を同時に確保するために空挺部隊を投入することとなった。作戦参加部隊は、第1空挺軍(3個空挺師団基幹)および英第30軍団(3個師団基幹)である。

計画

計画は二つの作戦、空挺部隊の降下によるマーケット作戦および英第2軍の第30軍団が先頭に立って国道69号線に沿い北へ移動するガーデン作戦から成った。空挺部隊はルート上の主要な橋を確保、地上部隊は3ないし4日でドイツ・オランダ国境付近まで一気に北上するというものである。 ニーダーライン川を越え北部の町アーネムを押さえればジークフリート線を完全に迂回してドイツ本国への進撃路を確保することができる。

マーケット作戦

マーケット作戦は第1空挺軍の五個師団のうち三個師団が投入された。主要な降下地点は3箇所。南部からアイントホーフェン、ナイメーヘン、アーネム。米第101空挺師団は英第30軍団の真北に降下しアイントホーフェンの北西ゾンとフェフヘルの橋を確保、米第82空挺師団はさらにその北東、グレーヴとナイメーヘンの橋を確保することとなった。最後の英第1空挺師団とポーランド第1独立パラシュート旅団はアーネムの鉄道橋と道路橋を確保するため、作戦地域の北端に降下することとなった。

アイントホーフェン地区にかかる橋は運河橋であり、爆破されても工兵による架設が可能であるが、ナイメーヘンとアーネムにかかる3つの橋は川幅も広く、ナイメーヘンの橋か、アーネムの両方の橋が爆破されてしまえば作戦は失敗する。

マーケット作戦は「リフト」lifts として知られている三つの大きな作戦のうち30,000人を降下させる最大のものであり、歴史上でも最大の空挺作戦だった。英第1空挺軍軍団長・連合空挺軍副司令官のフレデリック・ブラウニング中将は前線で指揮をするため自らの司令部を第一陣の降下部隊(第82空挺師団)に加えた。

ガーデン作戦

ガーデン作戦は英第2軍の主力である第30軍団が行う。彼らは、戦線を国道沿いに突破を行い、作戦初日に降下した米第101空挺師団に合流し、2日目には第82空挺師団に合流。遅くとも3日目あるいは4日目に英第1空挺師団に合流すると計画された。さらに幾つかの歩兵師団を防御任務のために空挺師団と交代させ、出来る限り早期に空挺師団を他の任務に振り分ける予定であった。

現実には4日間の期間は空挺師団が補給無しで戦闘するには長すぎた。更に降下兵たちは効果的な対戦車兵器を持たなかった。しかしながら、この時点で連合軍司令部はドイツ軍の戦力が壊滅しつつあると考えていた。実際、アントワープからシェルト川河口域南岸のドイツ軍排除に着手していたカナダ軍正面のドイツ第15軍のほとんどは装甲車両を持たず、すぐに退却するように思われた。したがって英第30軍団は国道69号線上で限定的な抵抗にしか直面しないと予想された。

ドイツ軍

独第15軍の敗走は、9月前半にゲルト・フォン・ルントシュテット元帥が西部軍総司令官に着任することでようやく食い止められた。ヴァルター・モーデル元帥より代わったルントシュテットはヒトラーに嫌われていたが、前線の将兵達には好かれていた。部隊はその週内に戦闘可能状態に補充された。具体的にはモントゴメリーの英21軍集団の快進撃により分断され大西洋岸に孤立していた独15軍の敗走兵のほとんどを、奪還されず放置された状態にあったシェルト川河口北岸堤防から続々と船上げし、その細長い半島、カナダ第1軍とヴェステルシェルデの間のポケットから脱出させることで、たまたま進撃予定ルートの北西部へ兵員85,000人(車両6,000台、銃砲600機以上)を加えることに成功した。ルントシュテットは直ちに国防軍情報部が報告した連合軍の60個師団に対する防衛計画を作成し始めた。(実際には49個師団しか存在しなかった。)

クルト・シュトゥデント上級大将は、新設の独第1降下猟兵軍を得たものの、海岸線の防衛を任されていた719師団(補給部隊:シェルト川北岸などに駐屯)と176師団(病傷兵が大半)など寄せ集めの兵をもってベルギー・オランダ国境沿いのアルベルト運河に防衛線を構築することとなった。たまたま彼はドイツ空軍の降下猟兵(空挺部隊)の創設者であり、オランダ侵攻作戦クレタ島の戦いを実践指揮するなど降下作戦に関して一級の豊富な知見をもっており、またシュトゥデントが得た3,000名の降下猟兵は、おそらく当時のドイツ軍唯一の戦闘即応部隊であった(敗残兵のみと予想していた連合軍将兵はこの精鋭部隊の出現に驚かされる事になる)。フランス北部で戦い壊滅した独第85師団を指揮していたクルト・チル中将は、オランダの橋の交差地点で敗残兵を集め混成部隊を形成した。シュトゥデントはチルの編成した混成部隊を指揮下におきオランダ・ベルギー国境付近の防衛線を構築した。

ヴィルヘルム・ビットリッヒ親衛隊中将第2SS装甲軍団第9SS装甲師団第10SS装甲師団)はアーネム近郊で休養・再編成を行っていた。この部隊は、ノルマンディの戦いとそれに伴う艦砲射撃、空爆により大きな損害を受けており、兵員はノルマンディ投入前の約半数、また装甲車両の大半は何らかの被害か故障を抱えていた。ファレーズ包囲戦からの脱出に成功したあと9月の上旬までには一部の軽微な被害車両の修理が開始され、また残りの過半の車両はドイツ本国での修理のために貨車積載を開始していた。

アルベルト運河沿いに配置された兵士の多くから、対岸の連合国車両が夜間まで頻繁に行き来している状況が報告されており、近く大規模な侵攻作戦が展開されることが予想されたが、それが具体的にどのような作戦であるかは不明であった。

問題

ドイツ軍の動静に関する幾つかの情報がオランダから報告され始めた。しかしながらこの時点で計画立案は最終段階にあり、報告書は原則、無視された。偵察機による航空写真で、アーネム(英軍降下予定地)から北東わずか15kmの地点にドイツ装甲師団の展開が確認されたが(第2SS装甲軍団)、写真はすぐに廃棄された。

更に悪いことに、空軍の輸送部隊は輸送機1,545機と発動機のない輸送用グライダー478機を投入できるものの、必要輸送能力のほぼ半分にすぎないことが判明した。そこで作戦初日に2度の降下が要求されたが、整備の必要から拒否された。この問題は非常に大きく、悪天候やあらゆるロスが航空支援能力をさらに低下させると考えられた。アーネムでは、北にデーレン(エーデ)飛行場があり高射砲の射程に入るため、目標の橋の北での降下は拒否された。別の降下地点候補は橋の南部にあったが、そこは湿原であると考えられたため、重量のある装備を搭載したグライダーが着陸するには適しなかった。代わりに橋から15km西の地点が選ばれた。

戦闘

一日目、1944年9月17日(日)

オランダへの連合軍の降下 9/17/44
ナイメーヘンへの降下

マーケット・ガーデン作戦は成功裡に開始された。最初の降下は日中に正確に行われ、空挺部隊のほとんどは抵抗もなく目標降下地点に到着した。この点は夜間降下により部隊が20km以内に散在したノルマンディー上陸作戦と大きく異なった。

南部のアイントホーフェン地区に降下したマクスウェル・D・テイラー率いる米第101空挺師団は、ドイツ軍の抵抗にはほとんど遭遇せず、容易にフェフヘルの小さな橋を占拠した。しかし一方ゾンではドイツ軍の対戦車砲の前に進撃が遅れていた。同日遅く独第15軍の攻撃で米軍は撃退され、部隊はゾンの南へ退避した。

ナイメーヘン地区には米第82空挺師団が降下した。町の南東に第505および508連隊、南部に504連隊が降下している。フラーフェの近くに降下した小グループはマース川にかかる橋の確保に成功した。しかしシュトゥデントが編成したドイツ軍防衛線は空挺作戦における降下地点の重要性を知悉しており、ナイメーヘン東部のフロースバークの丘を執拗に圧迫し、米第82空挺師団の主力は同日中、丘の防衛に終始することとなった(師団司令部やブラウニング中将の作戦司令部、そして空挺堡すなわち師団の補給降下地点でもあるため、丘を奪われるわけにはいかなかった)。そのため橋を確保する試みは連絡の不良もあり同日遅くまで行われず、ナイメーヘン橋は依然ドイツ軍の手にあった。

北部アーネム地区に降下した英第1空挺師団の空輸は滞りなく行われたが、運悪くグライダーに搭載されている偵察ジープは降下の時点で半数以上が失われ、残りはアーネムへの先導をしている途中で待ち伏せにあった。したがって、アーネムの橋を確保するただ一つの可能性は徒歩であった。さらに、輸送機の不足から師団全兵力の輸送は行われず、初日に降下したのは第1パラシュート旅団と第1グライダー旅団のみであった。第1パラシュート旅団はアーネムの橋の確保を担当し、第1グライダー旅団は翌日の残余部隊(第4パラシュート旅団および第1グライダー旅団)のための降下予定地確保を担当することとなった。

英第1空挺部隊による、アーネムの橋の確保は困難を極めた。第1パラシュート旅団の三個大隊のうちの二つは、たまたま降下地点付近に駐屯していたドイツ軍(第16装甲擲弾訓練予備大隊:セップ・クラフト親衛隊少佐、および第9SS装甲師団ホーエンシュタウフェンの一部)の攻撃をうけ進撃速度が遅れた。残りのジョン・フロスト中佐に指揮された第1パラシュート旅団第2大隊は幸いにも無防備な進撃路を発見した。途中にあった鉄道橋はドイツ軍に爆破されたが、19時半にはアーネムの道路橋に到着し防御陣地を形成した。しかし、残りの二個大隊は、後方から来た敵の増援により進撃が遅れた。よって降下第二陣を待ち、翌日の再攻撃が決定された。ドイツ側は降下地点(オースターベーク付近)からアーネム周辺の防衛線としてクラフト少佐の残兵と第9SS機甲師団を中核とした16の部隊をルートヴィヒ・シュピンドラー親衛隊中佐が組織する戦闘団シュピンドラーとして再編した。

82空挺師団の降下

空挺作戦は、その複雑さを考慮すれば順調な滑り出しといえた。しかし作戦は初日から重大な問題を抱えていた。ナイメーヘンとアーネムの橋はライン川の二つの支流に架けられ、南に架けられた他の橋とは異なり工兵隊による架橋は不可能であった。更に悪いことに、英第1空挺師団はそれらの橋の最北部、ニーダーライン川のさらに北岸に降下していた。ナイメーヘンおよびアーネムの橋のいずれもが確保できなかった場合、英第30軍団は降下した空挺部隊と合流する方法はなかった。1日目の終わりにアーネムはかろうじて確保された。しかし途中のナイメーヘンは依然としてドイツ側にあった。

更に事態を悪化させたのは、英軍の無線機故障であった。英軍の使用する長距離VHF無線機は誤った水晶を積み、操作可能な周波数は誰も使用していなかった。また、旅団間の通信に使われた短距離無線機は原因不明の故障で動作せず、それぞれの旅団は完全に離れて孤立した。アーネムの英第1空挺師団では、通信不良から師団長のアーカート少将が直接情報確認に出たところをドイツ軍の攻撃を受け、民家の屋根裏に2日近く閉じ込められ行方不明となる事態となった。

英第30軍団は作戦開始時刻が13時であったにもかかわらず、14時まで進撃を開始しなかったが、その理由ははっきりしない。先日からの空爆と作戦開始前30分間の砲撃により国境付近のドイツ防衛線は壊滅状態にあったが、進撃開始後すぐに道路脇の塹壕から対戦車砲の砲撃を受け、破壊された戦車が行く手をふさいだ。この抵抗を排除するのに近衛機甲師団の数両の戦車と数時間を要した。午後5時には照明が灯され、彼らは依然アイントホーフェンの15km南の地点、ヴァルケンスヴァールトにいた。彼らはそこで野営することとなった。作戦は既に遅延していた。

ドイツ側にとっても事態はそれほど良くなかった。理由の大半は何が起こっているかはっきりしなかった点にある。オースターベークの司令部にいたモーデルは、戦略的に意味が何も無いハズである場所(オースターベーク)に突然降下してきたイギリス兵によって完全に混乱し、彼はイギリス兵を自らを誘拐しにきたゲリラ部隊であると結論を下した(要人誘拐については独オットー・スコルツェニーによるムッソリーニ救出など前例がある)。一方の第2SS装甲軍団を指揮するヴィルヘルム・ビットリッヒ親衛隊中将は事態を明確に把握していた。彼は橋の防御を強化するためにナイメーヘンへ第9SS装甲師団の偵察隊を直ちに送った。オースターベークの司令部からアーネム東部のドゥーティンヘムの司令部に避難してきたモーデルに対しビットリッヒはナイメーヘン、アーネムの橋の爆破を進言したが却下された(「きたるべき反攻の日のために」)。アイントホーフェンの北西、フュフトで指揮を執っていたシュトゥデントの元には、墜落したグライダーから回収された重要な書類、マーケットガーデン作戦の全計画(作戦目標、降下地点、時間表等)が届けられた。夜を徹しておこなわれたテレタイプによる伝送により、マーケットガーデン作戦の全容は、オランダ駐留ドイツ軍の中枢に完全に把握されることとなった。

二日目、1944年9月18日(月)

アイントホーフェンのレジスタンスと101空挺師団の兵士 1944年9月
アイントホーフェンのレジスタンスと101空挺師団の兵士 1944年9月

二日目の初め、前日ナイメーヘンに送られた独第9SS装甲師団の偵察部隊は橋の防衛に必要がないためアーネムへ戻った。アーネムの道路橋にさしかかったとき、彼らは橋の英軍の火炎放射器PIATおよび携帯武器による奇襲を受け、約2時間の戦いで約70名の兵員と22台の車両を失い壊滅した。オースターベークで足止めされていた二つの英軍旅団はアーネムの橋の地点に移動しようとしたが、新たに到着した第10SS装甲師団によって撃退された。降下第二陣の英第1空挺師団第4パラシュート旅団は発進地のイギリスの濃霧により、出発が遅れていたが午後にはアーネムに到着した。しかし降下地点はドイツ軍の攻撃をうけ増援は戦闘の真っ只中でおこなわれたため失敗し、多くの兵員が失われ物資の大半はドイツ軍に奪われた。

ナイメーヘンの第82空挺師団も問題を抱えていた。グレーヴはよく守られたが、ドイツ軍はナイメーヘンの東の丘に展開した米第82空挺師団の降下地点を攻撃し続けた。午前には午後一時に到着予定であった降下第二陣の着陸目標地点のうちの1つを確保した。全エリアからの降下地帯への反撃で午後三時には同地帯のコントロールはドイツ軍の手に戻ったが、幸いにも英国での遅れにもかかわらず降下第二陣は午後2時に到着したため補給と増援は成功した。

ゾンで橋の確保に失敗した米第101空挺師団は、ベストから数km遠方の同様の橋の確保を試みた。しかしながら強固な抵抗に遭い結局あきらめた。この日の空挺補給は順調におこなわれたが、ヴィルヘルミナ運河に掛かる全ての橋はすでにドイツ軍により爆破され、橋を確保する当初の計画は完全に失敗した。他の部隊は地上部隊と合流のため南へ移動し続け、結局アイントホーフェンの北端に達した。正午ごろ彼らは英第30軍団からの偵察部隊に遭遇した。彼らは午後四時に南の本隊と無線交信を行いゾン橋の状況について報告を行い、部隊を南下させるために仮設した橋が戦車の重量には耐えられない事、ベイリー式仮設橋でのかけ直しの必要性、前線への輸送依頼などを報告した。

英第30軍団はすぐにアイントホーフェンに着き、英軍工兵部隊がゾン橋付近にベイリー式の仮設橋を組み立てるのを待ちながらその夜までにゾン橋の南で野営した。アイントホーフェンでは連合軍による開放を喜ぶ市民が路上にあふれ、英30軍団の行く手を阻んだ。二日目の終了までに作戦は36時間遅延し、主要な両方の橋は依然としてドイツ軍のコントロール下にあった。

三日目、1944年9月19日(火)

この時点で第1空挺軍のほとんどは計画地点に降下しており、唯一の例外が三日目の遅くに第三陣として降下する予定のポーランド第1独立パラシュート旅団であった。オーステルビークの第1空挺軍からは、フロスト中佐の部隊を支援するための別の試みがなされたが、ドイツ軍の抵抗は強力なものだった。橋に到達するいかなる可能性も無い様に考えられ、派遣された救援部隊は町の西、オーステルビークに防衛線を形成するため撤退してしまった。三日目の早朝にはアーネム橋の北端を占拠するフロストの元に投降を呼びかける使者が派遣されたが、これは無視された。その間に橋にはドイツ軍の戦車が到着した。午後にはティーガーがフロストの部隊が潜んでいる北岸の建物に対して直撃の距離から砲撃を開始した。

午後五時に降下第三陣のポーランド部隊が最後に到着したが、ドイツ軍が待ちかまえる地域に直接降下し、無線も故障していたため司令部に報告する方法もなく多くのポーランド兵が戦死することとなった。同時に投下されたいくらかの補給物資の大半はドイツ軍の手に落ち、第1空挺軍はその物資の一割しか回収できなかった。

米第82空挺師団においては物事は幾らかうまくいっていた。同師団は前進してきた第30軍団を発見しその朝に合流することが出来た。戦車の支援の下彼らはドイツ軍を速やかに撃退し、協力してナイメーヘン橋を確保することを決定した。英第30軍団近衛機甲師団と第82空挺師団505連隊は南から攻撃し、同504連隊はボートで渡河し北を確保することとなった。午後遅くにボートが要求されたが、南での交通渋滞によりそれらは翌日まで到着しなかった。第30軍団の戦闘車両はナイメーヘン橋の正面に展開した。

米第101空挺師団はベストを確保するため前日に南側に送られ、新たな攻撃に直面し土地を明け渡した。しかしながら英軍の戦車が到着しドイツ軍は午後遅くに撃退された。その後パンター戦車がゾンに到着し、ベイリー橋に砲撃を始めた。しかし二両のパンターは新たに投下された対戦車砲によって撃破され、橋は守られた。

四日目、1944年9月20日(水)

アーネムではフロスト中佐の第1パラシュート旅団第2大隊は持ちこたえ続けた。正午近くに無線機が回復し彼らは英第一空挺師団の残りがドイツ軍を排除する可能性を持っておらず、英第30軍団が彼らの南、ナイメーヘン橋の正面に釘付けにされていることを知った。午後までにドイツ軍はアーネム橋を完全に支配しており、フロスト達英軍が防御していた家屋への砲撃を始めた。師団の残りはアーネム西方のオーステルビークに防衛拠点を形成し、英第30軍団の到着を待った。

ナイメーヘンでは前日の夜に要請したボートが到着した。午後一時、イギリス本土から飛来してきた航空支援の予定時刻にあわせて"オールアメリカン"第82空挺師団・504連隊の26艘の手漕ぎボートは機関銃掃射と迫撃砲のなか渡河を強行した。この渡河は戦史における最も勇敢な行動の一つとして見なされた。彼らは河岸を確保し、ついで鉄道橋を確保し(ここは戦車での渡橋は不能)、北岸の機銃台座や要塞を攻撃しはじめた。北岸の防衛が崩れだすとナイメーヘン道路橋南岸を確保していたドイツ兵も敗走を始めた。南岸の英第30軍団(コールドストリーム近衛連隊)の車両は道路橋を蹂躙攻撃し、北岸の504連隊と合流した。ナイメーヘン橋は四日目にして連合軍の手に落ちた。

アーネムの友軍への道は確保されたが、英30軍団の車両は進軍を停止した。ナイメーヘンからアーネムへの街道はオランダに特有の低湿地帯に築かれた台状の上を走るもので、歩兵支援のない車両の単独走行は対戦車砲の格好の標的になる危険があった。第82空挺師団の将兵は激昂して即座の進軍を主張したが、英30軍団は安全を優先した。すなわち後方からの陸軍歩兵部隊の到着を待ち、歩兵支援を受けたうえでの進軍を選択した。その間にドイツ軍は街の東側の丘からの別の攻撃を組織した。アーネム橋を死守するフロストの部隊が救援される最後の希望は失われた。

アイントホーフェンでは第101空挺師団と様々なドイツ部隊との戦闘は継続しており、結局弾薬不足の車両を残して数両のパンターの再突撃が道路を分断した。

五日目、1944年9月21日(木)

ドイツ軍の攻撃は激しかったが、五日目の朝にして事態はマーケット・ガーデン作戦に好転し始めた。英第30軍団はナイメーヘン橋を渡りアーネム橋で進行中の戦闘に向けて急いだがそれは遅すぎた。フロストの部隊は一握りの兵が二軒の家に立てこもり、彼らは持っていた弾薬のほぼ全てを使い果たした。最後の無線通信「弾薬が切れた、神よ王を救いたまえ。」は折からの通信回線の不調により友軍には届かずドイツ軍の通信手が傍受していた。ジョン・フロスト中佐の第1空挺旅団第2大隊は降伏した。

ちょうどその頃、悪天候で二日間遅れていたポーランド旅団(英亡命ポーランド人からなる志願兵)の主力が到着した。ニーダーライン川の北部はすでにドイツ軍の勢力下にあり降下できなかった。したがってポーランド第一独立パラシュート旅団は新たな降下地点を川を横切った南方の湿地帯に選択した。降下は成功したが、英軍と連絡を取る予定だったドライエルの渡し船はすでに沈められていた(後の調査では索綱が切られたため下流に流されていた)。その結果対岸の英第一空挺師団との連絡手段がなく、新戦力の投入は浪費されることとなった。

その間、英第30軍近衛機甲師団の主力はナイメーヘンにとどまっていた。彼らの南側は依然として脅威にさらされており指揮官はナイメーヘン前方への部隊の移動を拒絶した。そして第43歩兵師団の担当ラインまで後退し街を奪取するため移動することを無線連絡した。彼らの後方には30マイルに渡る長い交通渋滞があり、第43歩兵師団は翌日まで到着しなかった。しかし英軍の砲兵部隊は十分に接近しておりオーステルビークの中の部隊と無線連絡を取り、そして彼らに接近することを試みたドイツ部隊への攻撃を始めた。

ドイツ軍の攻撃は依然道路沿いに続けられた。しかし連合軍の優位は明白に成りつつあった。ドイツ軍の攻撃は停滞し、英軍と第101空挺師団はより多くのエリアを確保した。

六日目、1944年9月22日(金)、不吉の金曜日

ポーランド兵は渡河手段がなかったため、ナイメーヘンからの英軍砲兵の砲撃と共に戦闘を座視することを強いられた。同日の午後、二名の英降下兵がライン川を泳いで渡り絶望的な状況を伝え、出来る限りの支援を求めた。ポーランド部隊は薄いゴム製のボートを装備していたが、夜には渡河を試みることを約束した。この試みはドイツ軍の知るところとなり、砲火の中で、第8ポーランド降下中隊の内わずかに52名が渡河できただけだった。

この時点で戦闘地域の大半は連合軍のコントロール下にあったが、問題の全ては英第30軍団とニーダーライン川の北側にあった。第43歩兵師団が到着すると直ちに事態は改善され、近衛機甲師団はアーネム橋の再奪取のため攻撃を試みた。

一方ドイツ軍は他の考えを持っており、前夜に二つの混成装甲部隊を組織しフェフヘルとグレーヴ間の国道69号線の中間地点の両脇に配置した。彼らは攻撃を始め一方では連合軍部隊が国道までたどり着き防御線を切断したが、もう一方では連合軍を停止させた。アイントホーフェン、ナイメーヘンの地獄の街道に対する独15軍団の攻撃は激化し、ナイメーヘンが包囲殲滅を受けかねない状況のなか、アーネムへの連合軍の前進は不可能であった。

七日目、1944年9月23日(土)

ドイツ軍はポーランド兵の動静をうかがい、河岸で英軍から分断するのにその日の残りを費やした。英軍はどうにか持ちこたえたが、両岸とも大きな損害を被った。ドイツ軍は南岸のポーランド兵を攻撃したが、数両の戦車が英第30軍団から到着しドイツ軍を撃退した。カナダ軍からのボートと工兵がその日到着し、その夜ポーランド第3降下兵大隊の150名がニーダーライン川を渡河しオースターベークの英第一空挺師団に合流した。

南側では道路を跨いだドイツ軍の攻撃が停止したが、道路は依然として分断されていた。英第30軍団は近衛機甲師団の一部を20km南に送り、再度道路を確保した。北側の部隊の残りはアーネムから数キロの地点で歩兵部隊を待ち続けた。

なお、第82空挺師団の残余である第325グライダー連隊が予定(当初予定では19日)より大幅に遅れて降下している。

八日目、1944年9月24日(日)

第1空挺軍の降下 9/24/44

ドイツ本国から到着した45台のティーガーIIが戦線に投入され、大量の砲撃支援を受けたドイツ軍部隊がフェフヘルの南で道路の分断に成功した。幾つかの部隊がその地域にいたが、攻撃を食い止めることは出来なかった。ドイツ軍は夜に向けて素早く防御拠点を整えた。

この時点では連合軍にとってこれらの行動がどれほど危険なものであるかは明らかではなかった。しかし、マーケット・ガーデン作戦は中止され防御に切り替えられることが決定され、オースターベークの英第1空挺師団は撤退、また予定されていた降下はその夜取り消された。ナイメーヘンの前線が新しい戦線として固定された。

九日目、1944年9月25日(月)

午後十時に英第1空挺師団の撤退が開始された。撤退はドイツ軍の傍受を想定して「ベルリン作戦」と呼ばれ、英軍およびカナダ軍の工兵部隊がニーダーライン川を14台のモーターボートと多数の上陸舟艇を使って渡河させ、ポーランド第3降下兵大隊が北岸を援護した。翌26日の早朝までに2,000名が撤退完了したが300名が依然北岸にあり、夜明けからのドイツ軍の攻撃が撤退作業を停止させた。彼らはドイツ軍に降伏した。英第1空挺師団の10,000名の内、脱出できたのは2,000名であった。

南方では新たに到着した英第50歩兵師団(ノーサンブリア師団)がドイツ軍の確保する国道を攻撃した。翌日までにドイツ軍は排除され抵抗は終了した。ドイツ軍は撤退のさいに大量の地雷を敷設して行ったため、道路の安全が確保されるのに数日を要した。回廊は安全になったが、どこにも通じなかった。

結論

マーケットガーデン作戦時の北西ヨーロッパ
破壊されたナイメーヘン市街9/28/44
メモリアルとして残される対戦車砲 2005年5月5日
ジョン・フロスト橋 2005年5月5日

今日マーケット・ガーデン作戦に対する見方は二分される。アメリカの歴史家はモントゴメリーの用兵を評価しない傾向にあり、一方、イギリスの歴史家はアメリカ軍の貢献を評価しない傾向にある。

アイゼンハワーはその死までマーケット・ガーデン作戦に行う価値があったと信じた。コーネリアス・ライアンアイゼンハワーの発言を引用する。「...あなたがイギリスで何を聞いたか知らないが、イギリス人はアメリカ軍の指揮系統を理解したことはなかった。...私はイギリス人から賞賛の言葉は一言も聞かなかった。あなたもモントゴメリーのような人たちから賞賛の言葉を聞くことはないだろう。」しかしアイゼンハワーはこのような見解を彼自身の胸に留め、戦争の終了まで明らかにしなかった。

問題は作戦がライン川支流、ニーデルライン川とワール川に架かる両方の橋を占領、確保することを要求した点にあった。アーネムの橋の北端はかろうじて確保されたものの、ナイメーヘン橋はドイツ軍の手中にあり、英第1空挺師団は他の空挺軍、地上軍と希望もなく切断された。ナイメーヘン橋の占拠に成功しても、アーネム橋が得られなければ事態は好転しなかった。これはニーデルライン川を渡って空挺部隊を救援する必要を示した。そしてこのような不測の事態に対して許可される渡河計画はそもそも存在しなかった。

重要な橋の確保はその付近に降下が行われた場合直ちに容易に達成された。フェフヘルやグレーヴが正にそうであった。アーネムとナイメーヘンでは英第1空挺師団や米第82空挺師団の半日にも及ぶ徒歩やその他の努力にもかかわらず、成功の可能性はほとんど無かった。

ジョン・フロスト中佐の第1パラシュート旅団第2大隊はアーネム道路橋を巡る戦闘で失われたが、アーネム橋が唯一の渡河手段ではなかった。実際、作戦計画の段階でフェリーがドライエルで利用可能であることは確認されており、英第1空挺師団を支援するために計画の当初からそれを確保・使用することを想定していれば、救援作戦はより安全に展開されたかもしれない。

英第30軍団司令官ブライアン・ホロックス中将は作戦の別の方針を求めた。約25km西のレーネンにアーネム橋に似た橋があり、その橋はドイツ軍の戦力がオーステルビークの防衛に振り向けられていたためほとんど無防備である筈だった。実際その通りで、第30軍団がその橋を攻撃すれば反撃を受けることなく彼らはオーステルビーク西のドイツ軍防衛ラインの後方を確保できた。しかしながらこの時までに、ドイツ軍の継続的な抵抗が行われモントゴメリーはチャンスを掴み損ねた。

装備にも重大な問題があった。連合軍はドイツの装甲車両の配備が壊滅状況にあると見なしていたため、降下部隊に十分な対戦車兵器が配備されなかった。ドイツ軍歩兵部隊はパンツァーファーストパンツァーシュレックなど強力な対戦車兵器が配備されたのに対し、連合軍の降下兵はドイツ軍の装甲車両の攻撃に対して逃げるか隠れるか、降下地点に設置した僅かな対戦車砲の支援攻撃を要請しなければならない状況であった。さらに通信装備の不調により部隊は各個に孤立し状況の把握が困難を極め、ドイツ軍の迅速な展開に対してつねに対処が遅れた。支援攻撃の要請や、英国本土から飛来した航空支援に対して地上から支援要請をおこなえない不具合から、好機を逸する不手際も発生した。

また、連合軍がモーデル、ビットリッヒ、シュトゥデントといった有能なドイツ軍指揮官に直面したことを考慮すべきである。連合軍が奮戦した一方、ドイツ軍はそれ以上に奮戦し彼らの火力は連合軍車両を撃破した。モーデルが2つの重要な道路橋の爆破を禁じたことは、結果として連合国軍にとっては、悪意に満ちた挑発行為となった。また急ごしらえの混成軍で、兵器も旧式のものが中心であったにもかかわらず、ビットリッヒ、シュトゥデントの防衛線は執拗に降下地点に圧力をかけ続け、連合軍の空挺補給・増援を困難にした。アイントホーフェン-ナイメーヘン間(地獄の街道)、ナイメーヘン-アーネム間(孤立地帯)を結ぶ「ただ一本の道」に側面攻撃をかけ続けることは英30軍団の進軍を妨げ作戦の達成をより困難にした。

連合軍はことごとく悪い選択を行い、好機は無視された。グライダー連隊の指揮官はアーネム橋南部に着陸し橋を速やかに確保するための小部隊を要求した。このことはアーネムで戦いの趨勢を変更する可能性があった。フロスト中佐の部隊は南岸からの支援により橋は両岸で完全に確保できたかもしれない。

イギリスでは、グライダー降下部隊である第52Lowland歩兵師団の指揮官イクウェル・スミス少将がアーネム、およびオーステルビークで苦闘するアーカート少将の英第1空挺師団を支援するためブラウニング中将に出撃を懇願したがこれは許可されなかった。スタニスラフ・ソサボフスキー少将は霧中での危険にもかかわらず降下を申請したが、これも拒絶された。

ナイメーヘンの橋が奪取された四日目、オールアメリカン第82空挺師団の果敢な渡河作戦によりアーネムへの道が開かれた段階では、ナイメーヘン-アーネム間のドイツ軍防衛線はまったくの空白状態であり、またアーネムの苦戦を知らされていた82空挺師団の将兵は英30軍団の即座の前進を確信していたが、この期待は裏切られた。慎重な進軍計画と無駄にされた時間はドイツ軍の再配備に費やされ、あとわずか10数キロに満たない友軍への道を塞ぐ結果となった。

最後に、そして恐らく最も重要なことはオランダのレジスタンスが連絡将校の戦死によりアーネムで連合軍と連絡が取れなかったことである。数百人の十分に武装され地理に詳しく決意を持った男女は、彼らの知識およびドライエル・フェリーと秘密電話網と言った二つの特殊装備で大きな助けとなっていただろう。ドライエル・フェリーはライン川両岸の戦力を統合することが出来たであろうし、秘密電話網はアーネム、ナイメーヘンを始めとした重要拠点の連絡を可能にしていたと考えられる。後者は特に重要だった。皮肉なことに、レジスタンスによって交換所が占拠されていた一般電話回線網は、戦闘地区全域において通話可能な状態で維持されていたのである。無線通信に頼らずとも、民家の受話器を取り上げ合言葉を告げさえすれば、英第30軍団と空挺部隊の最高司令部にフロスト中佐とアーカート少将がアーネムに於いて如何なる恐ろしい状況に包まれたかを伝えることが出来たはずである。

結局モントゴメリーはマーケット・ガーデン作戦を90%成功したとし、「私の偏見的な見方では、もし作戦が当初から援護され、十分な航空機、地上兵力、そして遂行するのに十分な資材が与えられていたなら、私の失敗や悪天候、アーネム地域に存在した第2SS装甲軍団にもかかわらず成功していたであろう。私はマーケット・ガーデン作戦を擁護することを後悔していない。」と語った。

しかし、オランダのベルンハルト王子はコーネリアス・ライアンに「私の国にはもう一度モントゴメリーの言うような"大成功"を実現させる余裕はない。」と語った。

なお、アーネムの橋は、1944年に連合軍の爆撃によって破壊されるが、戦争終結後速やかに掛け直される。しかもそれは、ジョン・フロスト中佐に敬意を払い、当時のままの姿で復旧され、ジョン・フロスト橋と改名され現在に至っている。西部戦線はマーケット・ガーデン作戦の失敗により完全に停滞し、その冬のラインの守り作戦(バルジの戦い)、東部戦線の春の目覚め作戦を経て、45年3月にライン上流部でルーデンドルフ橋の確保に成功するまでライン川を越えることができなかった。

文献

映画

当作戦を題材としたゲーム

外部リンク

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