「伊佐郡 (常陸国)」の版間の差分

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== 伊佐氏 ==
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伊佐郡を名字の地としていた一族に[[伊佐氏 (常陸国)|伊佐氏]]がある。[[1189年]](文治5年)の[[源頼朝]]による[[奥州合戦]]では[[伊達朝宗|常陸入道念西]]の長子[[伊佐為宗]](常陸冠者為宗)が[[阿津賀志山の戦い|阿津賀志山]]の戦いで戦功をあげ奥州[[伊達郡]]を拝領。為宗は本領の伊佐郡にとどまったが、念西と一族の者が伊達郡へと下り、後の[[仙台藩]][[伊達氏]]の始祖となった。[[鎌倉幕府]]の公式記録ともいえる[[吾妻鏡]]では、[[1240年]](仁治元年)の[[伊佐右衛門慰]]以降、[[伊佐氏 (常陸国)|伊佐氏]]に関する記述は見られないが、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に[[常陸国]]が戦場となると、[[伊佐城]]を拠点に同族の[[伊達行宗]](伊達行朝)とともに[[南朝]]方として戦っている。<ref>伊佐城は、[[1343年]](興国4年・康永2年)に落城。伊佐氏は没落し、伊達氏も常陸における拠点を失う。</ref>
伊佐郡を名字の地としていた一族に[[伊佐氏 (常陸国)|伊佐氏]]がある。[[1189年]](文治5年)の[[源頼朝]]による[[奥州合戦]]では[[伊達朝宗|常陸入道念西]]の長子[[伊佐為宗]](常陸冠者為宗)が[[阿津賀志山の戦い|阿津賀志山]]の戦いで戦功をあげ奥州[[伊達郡]]を拝領。為宗は本領の伊佐郡にとどまったが、念西と一族の者が伊達郡へと下り、後の[[仙台藩]][[伊達氏]]の始祖となった。[[鎌倉幕府]]の公式記録ともいえる[[吾妻鏡]]では、[[1240年]](仁治元年)の[[伊佐右衛門慰]]以降、[[伊佐氏 (常陸国)|伊佐氏]]に関する記述は見られないが、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に[[常陸国]]が戦場となると、[[伊佐城]]を拠点に同族の[[伊達行宗]](伊達行朝)とともに]]。[[南朝 (日本)|南朝]]方として戦っている。<ref>伊佐城は、[[1343年]](興国4年・康永2年)に落城。伊佐氏は没落し、伊達氏も常陸における拠点を失う。</ref>


==脚注==
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2007年8月18日 (土) 07:21時点における版

伊佐郡(いさのこおり・いさぐん)は、かつて常陸国(現在の茨城県の大部分を占める、古代律令制下に成立した国)に存在した郡。常陸国の西部にあって下野国下総国と境界を接していた新治郡が、細分化した結果成立した。ここでいう古代の新治郡は、近代になって成立し2006年(平成18年)まで存続していた茨城県新治郡(にいはりぐん)とは呼称こそ同じであるが、その領域、歴史的背景も異なる全く別のものである。

成立過程

7世紀末~8世紀初頭に成立した常陸国の郡[1]は、律令制の動揺とともに在地の豪族など諸勢力による細分化、再編成が進んだ。新治郡からはまず、小栗御厨伊勢神宮領として分出。残った領域が東郡、中郡、西郡の三郡に分かれ、このうち西郡が更に北条、南条に二分された。この西郡北条が伊佐郡、南条が関郡である。

伊佐氏

伊佐郡を名字の地としていた一族に伊佐氏がある。1189年(文治5年)の源頼朝による奥州合戦では常陸入道念西の長子伊佐為宗(常陸冠者為宗)が阿津賀志山の戦いで戦功をあげ奥州伊達郡を拝領。為宗は本領の伊佐郡にとどまったが、念西と一族の者が伊達郡へと下り、後の仙台藩伊達氏の始祖となった。鎌倉幕府の公式記録ともいえる吾妻鏡では、1240年(仁治元年)の伊佐右衛門慰以降、伊佐氏に関する記述は見られないが、南北朝時代常陸国が戦場となると、伊佐城を拠点に同族の伊達行宗(伊達行朝)とともに]]。南朝方として戦っている。[2]

脚注

  1. ^ 常陸の国における郡は、新治郡、筑波郡信太郡茨城郡行方郡、香島郡(鹿島郡)、那珂郡久慈郡多珂郡、白壁郡(真壁郡)、河内郡
  2. ^ 伊佐城は、1343年(興国4年・康永2年)に落城。伊佐氏は没落し、伊達氏も常陸における拠点を失う。