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2007年5月20日 (日) 19:52時点における版

シュラフタポーランド語:Szlachta)とは、ポーランド及びリトアニアにおいて存在していた貴族階級、ないしそこに所属する人々の事である。シュラフタは時に国王をしのぐ権力を持ち、中世から近世にかけてのポーランドの政治・文化に置いて大きな影響力を与えた。

なお、シュラフタの人数は西欧の貴族と比較すると多いため、時に日本の武士と対比して「士族」と称される事もある。

歴史

シュラフタの起源は、スラブ人キリスト教を受容する前から存在していた戦士階級とも考えられる。11世紀に成立したポーランド王国では国内の分権傾向が強く、貴族層が国王に対抗できる勢力を維持していた。これは大貴族に限らず、中小貴族も同じであり、これが後にシュラフタと呼ばれるようになった。

1386年リトアニア大公ヴワディスワフ2世としてヤギェウォ朝ポーランド・リトアニア連合が成立すると、国内の権力基盤が弱い国王に対して貴族勢力が多くの要求を呑ませ、シュラフタの影響力が更に強まった。1572年にヤギェヴォ朝が断絶して選挙王制へ移行すると、シュラフタは王の選出権を持つ二院制のセイム(国会、en:Sejm)やセナート元老院)を権力基盤として自らへの幅広い権利を認めさせた。これにより、1569年から完全にリトアニアとの連合王国へ移行したポーランドはしばしば共和国(ジェチボスポリタ)と称し、「シュラフタ民主主義」と呼ばれる体制が完成した。これは人口の約10%、100万人に当たるシュラフタがほとんど全ての権利を享受する制限民主政であり、大多数を占める農民層の政治参加は抑えられた。また、セイムでは全会一致原則が採用され、中央政府は弱体のままであった。やがて、シュラフタの中でも大きな領土を持つ30から40の家系がマグナートとして国政を主導し、中小のシュラフタはその影響下に入る寡頭政の傾向が進んだ。

17世紀以降に激化した外国勢力の進入は、18世紀後半になってポーランドの生存を脅かすようになった。1772年の第1次ポーランド分割後、シュラフタ(マグナート)達は国王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキへの権限強化を認め、1791年には国民の基本的人権を幅広く認めた成文憲法を成立させた。しかし、フランス革命の影響を強く受けたポーランドの新体制はロシアプロイセンオーストリアなどの周辺各国の恐怖感を煽り、この3国による1795年の第3次ポーランド分割により王国は滅亡した。

その後のナポレオン戦争ワルシャワ公国が復活し、セイムも再開されたが短命に終わり、旧ポーランド領の多くは1815年成立のポーランド立憲王国を通じてロシア帝国の支配下に入った。ロシアはポーランドの自治権を限定的にしか認めず、1831年にセイムも廃止した。シュラフタは政治的権力をほとんど失い、一部は立憲王国や帝国の官僚として支配体制に参加し、あるいは農民や小農園の領主としてロシア支配に服属した。

第一次世界大戦後の1918年、ポーランドがポーランド共和国として独立を回復すると、新政府は憲法でシュラフタなどの身分制を否定し、法的にはこれでシュラフタの存在が解消された。旧シュラフタ層の農地支配は継続したが、第二次世界大戦ナチス・ドイツがポーランド全土を占領して強圧的な統治を強行し、更に戦後成立したポーランド人民共和国ポーランド統一労働者党による社会主義政権)が農地改革を実施した結果、社会階層としてもシュラフタは消滅した。ただし、その貴族主義的文化はその後のポーランド社会にも影響を及ぼしているという指摘がなされ[1]、人民共和国時代には統一労働者党の幹部を無教養と皮肉るアネクドートも口にされた。また、その人民共和国、さらに1989年東欧革命で資本主義体制とともに旧称が復活したポーランド共和国でも議会に「セイム」の名称が使用されている。また、1989年に復活したポーランドの上院には「セナート」の名称が復活した。

脚注

  1. ^ 岡山大学教授の田口雅弘日本・ポーランド協会で行った講演の原稿