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2007年2月7日 (水) 11:03時点における版

媽祖(まそ、ピンインMāzǔ)は航海漁業守護神として、中国沿海部を中心に信仰を集める道教女神。特に台湾福建省広東省で強い信仰を集め、日本でもオトタチバナヒメ信仰と混淆しつつ広まった。親しみをこめて媽祖婆・阿媽などと呼ぶ場合もある。

媽祖伝承

媽祖は代に実在した官史の娘、黙娘が神となったものであるとされている。黙娘は建隆元年(960年)、福建省興化府の官吏林愿の7女として生まれた。幼少の頃から才気煥発で信仰心も篤かったが、16歳の頃に神通力を得て村人の病を治すなどの奇跡を起こし「通賢霊女」と呼ばれ崇められた。しかし28歳の時に父が海難にあい行方知れずとなる。これに悲嘆した黙娘は旅立ち、その後、嵋山の山頂で仙人に誘われ神となったという伝承が伝わっている。

なお父を探しに船を出し、遭難したという伝承もある。福建省にある媽祖島馬祖島、現在の南竿島とされる)に黙娘の遺体が打ち上げられたという伝承が残り、列島の名前の由来ともなっている。

媽祖は千里眼順風耳の二神を脇に付き従えている。この二神はもともと悪神であったが、媽祖によって調伏され改心し、以降媽祖の随神となった。

中国における媽祖信仰

媽祖は当初、航海など海に携わる事柄に利益があるとされ、福建省、広東省など中国南部の沿岸地方で特に信仰を集めていたが、時代が下るにつれ、次第に万物に利益がある神と考えられるようになった。歴代の皇帝からも媽祖は信奉され、世祖の代(1281年)には護國明著天妃に、康熙23年(1684年)には天后に封じられた。媽祖を祀った廟が「天妃宮」、「天后宮」などとも呼ばれるのはこれが由縁である。 媽祖信仰は、福建省・広東省の商人が活動した沿海部一帯に広まり、東北の瀋陽や、華北の天津煙台青島をはじめとする多くの港町に媽祖廟が建てられた。

こうして広まった媽祖信仰であるが、中華人民共和国政府は「迷信的・非科学的な活動の温床」ととらえ、厳しく規制した。特に文化大革命期にはほぼすべての廟祠が破壊され、信者も迫害されたが、改革開放の進展とともにこうした規制は次第に曖昧になり、80年代終わり頃から廟祠の復興が黙認されるようになった。

香港マカオでは文化大革命の影響をほとんど受けなかったこともあり、一貫して民間信仰は盛んである。各地に媽祖を祀った媽閣廟、あるいは天后廟があるが、中でも香港の赤柱(スタンレイ)の天后廟、マカオの媽閣廟は有名で、観光名所ともなっている。マカオの地名の由来は、この媽閣廟(マーコッミウ)を、聞いたポルトガル人が地名と思ったことによると言われている。

台湾における媽祖信仰

台湾には福建南部から移住した開拓民が多数存在した。これらの移民は媽祖を祀って航海中の安全を祈り、無事に台湾島へ到着した事を感謝し台湾島内に媽祖の廟祠を建てた。このため台湾では媽祖が広く信奉され、もっとも台湾で親しまれている神と評される事も多い。

台湾最初の官建の「天后宮」は台南市にある台南大天后宮である。

この媽祖信仰は日本統治時代末期に台湾総督府の方針によって一時規制された。なお台北最大規模だった「天后宮」は1908年に台湾総督府により撤去され、かわりに博物館(現在の二二八公園内の台湾国立博物館)が建てられた。

日本統治の終了後は再び活発な信仰を呼び、新しい廟祠も数多く建立されるようになった。なお毎年旧暦の3月23日は媽祖の誕生日とされ、台湾全土の媽祖廟で盛大な祭りが開催されている。