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===歴史を変えた復讐===
===歴史を変えた復讐===
巫臣の晋での評判を聞いた当時の楚の重臣である子反、[[子重]](公子嬰斉・荘王の弟)は、「[[晋 (春秋)|晋]]へ賄賂を贈って巫臣を用いられないようにしましょう。」と[[共王 (楚)|共王]]に献策したが、「無能であれば賄賂の有り無しに関わらず用いられず、有能であれば賄賂の有り無しに関わらず用いられる。無用である。」と退けられた。しかし、狙っていた夏姫を巫臣に横取りされたと怒っていた子反は子重と共に、楚に残っていた屈氏一族を殺害した。これを知った巫臣は、子反と子重へ「あなた達は邪悪な心で王に仕え、無実の人達を殺した。私はあなた達を奔走させて死ぬようにさせる。」との復讐の書簡を送った。その後、晋公([[景公 (晋)|景公]])に呉と国交を結ぶ事を進め、中華(この場合は周王朝と言う意味)の諸侯でめて呉と国交を結んだ。用兵や戦車を御する技術を伝え、子の[[屈庸]]を外交官として呉に仕えさせ、晋に帰国した。この事が後に呉国が強国になった一因となった。そして子反と子重は、巫臣の目論見通り呉との戦争に奔走させられ、子反は[[紀元前575年]]の[[鄢陵の戦い]]での失態が元で自害し、子重も呉との敗戦による心労で[[紀元前570年]]に死去し、巫臣の復讐は果たされた。呉が強国となる事で楚にとっての脅威となり、遂には呉によって滅亡寸前に追い込まれるなど、歴史を大きく変える復讐の策だったとも言える。
巫臣の晋での評判を聞いた当時の楚の重臣である子反、[[子重]](公子嬰斉・荘王の弟)は、「[[晋 (春秋)|晋]]へ賄賂を贈って巫臣を用いられないようにしましょう。」と[[共王 (楚)|共王]]に献策したが、「無能であれば賄賂の有り無しに関わらず用いられず、有能であれば賄賂の有り無しに関わらず用いられる。無用である。」と退けられた。しかし、狙っていた夏姫を巫臣に横取りされたと怒っていた子反は子重と共に、楚に残っていた屈氏一族を殺害した。これを知った巫臣は、子反と子重へ「あなた達は邪悪な心で王に仕え、無実の人達を殺した。私はあなた達を奔走させて死ぬようにさせる。」との復讐の書簡を送った。その後、晋公([[景公 (晋)|景公]])に呉と国交を結ぶ事を進め、自ら呉に出向いた。これにより晋は中華(この場合は周王朝と言う意味)の諸侯でめて呉と国交を結んだ。巫臣は用兵や戦車を御する技術を伝え、子の[[屈庸]]を外交官として呉に仕えさせ、晋に帰国した。この事が後に呉国が強国になった一因となった。そして子反と子重は、巫臣の目論見通り呉との戦争に奔走させられ、子反は[[紀元前575年]]の[[鄢陵の戦い]]での失態が元で自害し、子重も呉との敗戦による心労で[[紀元前570年]]に死去し、巫臣の復讐は果たされた。呉が強国となる事で楚にとっての脅威となり、遂には呉によって滅亡寸前に追い込まれるなど、歴史を大きく変える復讐の策だったとも言える。

その後、巫臣と夏姫との間に生まれた娘が、賢臣として名高い[[叔向]]の妻なった。


その後、巫臣と夏姫との間に生まれた娘が、賢臣として名高い[[叔向]]の妻なった。


==巫臣を題材にした小説==
==巫臣を題材にした小説==

2007年1月31日 (水) 13:57時点における版

巫臣(ふしん、生没年不詳)は中国春秋時代政治家荘王に仕えた。申公。子霊。楚王家から別れた名家屈氏の生まれ。若くして荘王に目をかけられ、国防の要である申県の長官や外交官を歴任した後、から亡命してに仕えた。その後は晋、において宰相を務めた。また絶世の美女である夏姫を妻としたことでも知られる。

略歴

夏姫との出会い

紀元前598年荘王は、夏徴舒の乱に乗じてを攻め滅ぼした。その際に、絶世の美女である夏姫を手に入れ、これを妾にしようとしたが、巫臣が「君は夏徴舒の罪を討たれたのに、夏姫を迎え入れれば色を貪り美人を得るための戦いであったことになります」と諌めたので荘王も思いとどまった。すると将軍の子反(公子側)が夏姫を娶ろうとしたが、巫臣は「夏姫は不吉です。叔父を死なせ、霊公を弑し、その子である夏徴舒を殺させ、孔寧と儀行父を出奔させ、陳を滅ぼしました。」と諫めたので子反も思いとどまった。


夏姫を妻に

その後荘王は、夏姫を連尹の襄老に与えたものの、紀元前597年邲の戦いにて、襄老は戦死してしまう。

巫臣は夏姫のもとへ人をつかわして、「故郷のに帰りなさい。あらためて私が妻に迎えましょう」と言った。そして荘王を説得し、夏姫を鄭に帰国させる事に成功する。

荘王の死後の紀元前589年が晋と対立する様になったのを受けて、巫臣は、楚が斉と同盟する為の使者に任じられる。これを捉えて巫臣は全財産や大半の族人と共に楚を出国し、鄭へと入った。 巫臣は鄭の襄公に夏姫を迎え入れたいと申し出、襄公はこれを許した。 そして、ここで使者の役目を放棄し、夏姫や族人達と共に一度は斉に入ったが、斉が鞍の戦いで晋に敗退したのを受けて、亡命先を晋へと変更した。そこで郤至を頼り、邢の大夫として郤克や晋の重臣達に重用された。


歴史を変えた復讐

巫臣の晋での評判を聞いた当時の楚の重臣である子反、子重(公子嬰斉・荘王の弟)は、「へ賄賂を贈って巫臣を用いられないようにしましょう。」と共王に献策したが、「無能であれば賄賂の有り無しに関わらず用いられず、有能であれば賄賂の有り無しに関わらず用いられる。無用である。」と退けられた。しかし、狙っていた夏姫を巫臣に横取りされたと怒っていた子反は子重と共に、楚に残っていた屈氏一族を殺害した。これを知った巫臣は、子反と子重へ「あなた達は邪悪な心で王に仕え、無実の人達を殺した。私はあなた達を奔走させて死ぬようにさせる。」との復讐の書簡を送った。その後、晋公(景公)に呉と国交を結ぶ事を進め、自ら呉に出向いた。これにより晋は中華(この場合は周王朝と言う意味)の諸侯で初めて呉との国交を結んだ。巫臣は用兵や戦車を御する技術を伝え、子の屈庸を外交官として呉に仕えさせ、晋に帰国した。この事が後に呉国が強国になった一因となった。そして子反と子重は、巫臣の目論見通り呉との戦争に奔走させられ、子反は紀元前575年鄢陵の戦いでの失態が元で自害し、子重も呉との敗戦による心労で紀元前570年に死去し、巫臣の復讐は果たされた。呉が強国となる事で楚にとっての脅威となり、遂には呉によって滅亡寸前に追い込まれるなど、歴史を大きく変える復讐の策だったとも言える。

その後、巫臣と夏姫との間に生まれた娘が、賢臣として名高い叔向の妻となった。

巫臣を題材にした小説