「范陽邁2世」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Clarin (会話 | 投稿記録)
m cat
編集の要約なし
3行目: 3行目:
もとの名を咄といったが、父王の死後に即位すると、父の生前を慕って「陽邁」と改名した。 [[446年]]、[[宋 (南朝)|宋]]の[[交州]][[刺史]]檀和之の侵攻にさいして范扶龍に迎撃させたが、范扶龍は敗死し、区粟城を落とされた。さらに宋軍が林邑国都に迫ったため、范陽邁2世は逃亡した。
もとの名を咄といったが、父王の死後に即位すると、父の生前を慕って「陽邁」と改名した。 [[446年]]、[[宋 (南朝)|宋]]の[[交州]][[刺史]]檀和之の侵攻にさいして范扶龍に迎撃させたが、范扶龍は敗死し、区粟城を落とされた。さらに宋軍が林邑国都に迫ったため、范陽邁2世は逃亡した。


{{先代次代|[[チャンパ王国]][[ベトナム帝王一覧|国王]]|第三王朝2代:[[431年]]-[[446年]]|[[范陽邁1世]]|[[范神成]]}}
{{先代次代|[[チャンパ王の一覧]]|第三王朝2代:[[431年]]-[[446年]]|[[范陽邁1世]]|[[范神成]]}}


[[Category:チャンパ王国|はんようまい2]]
[[Category:チャンパ王国|はんようまい2]]

2007年1月15日 (月) 12:12時点における版

范陽邁2世はんようまいにせい、Phạm Dương Mại II、? - ?)は、5世紀前半のチャンパ王国(林邑国)の国王。范陽邁1世の子。

もとの名を咄といったが、父王の死後に即位すると、父の生前を慕って「陽邁」と改名した。 446年交州刺史檀和之の侵攻にさいして范扶龍に迎撃させたが、范扶龍は敗死し、区粟城を落とされた。さらに宋軍が林邑国都に迫ったため、范陽邁2世は逃亡した。

先代
范陽邁1世
チャンパ王の一覧
第三王朝2代:431年-446年
次代
范神成