渡辺篤 (剣客)
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渡辺 篤(わたなべ あつし、天保14年12月18日(1844年2月6日) - 大正4年(1915年)1月6日)は、幕末から明治の剣客、京都見廻組肝煎。初名は一郎。
経歴
[編集]渡辺時之進の長男として京都に生まれる。大野応之助の元で西岡是心流(剣術)を修める。他にも円明流(剣術)、荻野流(砲術)、無辺流(槍術)、日置流(弓術)、大坪流(馬術)などを習得。
元治元年(1864年)、禁門の変の折には二条城の警備を担当した。同年、京都文武場剣術世話心得に就任。慶応3年(1867年)、京都見廻組御雇七人扶持を皮切りに肝煎介・肝煎と昇進。同年11月15日(12月10日)、佐々木只三郎・今井信郎らと共に坂本龍馬・中岡慎太郎の暗殺(近江屋事件)に加担したとされる。
慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いに旧幕府軍側として参戦。この頃に名前を「一郎」から「篤」に改名。
明治になり、奈良県警の監察官(のち本部長)として奉職した。奈良県知事海江田信義の計らいによるともいう。
京都府知事・北垣国道の開いた京都体育場の撃剣教師を務め、明治15年(1882年)には京都体育場の撃剣大会で籠手田安定と対戦している。
晩年、近江屋事件の様子を弟の渡辺安平や弟子の飯田常之助などに語り、父から贈られた刀「出羽大掾藤原国路」で龍馬を斬ったと述べている。