浅井万金膏
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浅井万金膏(あざいまんきんこう)とは、かつて愛知県一宮市浅井町で森林平製薬が製造・販売した膏薬。別名「相撲膏」[1][2]。
江戸時代後期から全国に普及し、最盛期には年間400万枚以上を手作業で生産[2]。愛知県葉栗郡浅井町(現・一宮市浅井町)は“浅井万金膏の町”として知られていた。
歴史
[編集]- 1709年(宝永6年):初代森林平(1685年(貞享2年) - 1772年(明和9年))が、尾張国葉栗郡東浅井村(現・愛知県一宮市浅井町)で接骨医を開業[3][4]。
- 初代の在世中(1772年(明和9年)以前):浅井万金膏の製造・販売を開始[注釈 1]。
- 幕末:尾張藩お抱え力士である境川浪右エ門(5代目)が、治療の為滞在する。完治後、大関まで昇進したことから、浅井万金膏は全国に知られる。
- 1864年(元治元年):第15代尾張藩主・徳川茂徳の落馬による怪我を治療。茂徳の完治後、葵紋入りの薬研を賜る[6][注釈 2]。
- 1997年(平成9年):大手医薬品メーカーが販売する湿布薬にシェアを奪われ、この年をもって製造中止[2]。
特徴
[編集]- 複数の生薬を火にかけてペースト状にした黒色の膏薬を和紙に貼り付けた物で、現在の湿布に近い[1][2]。
- 膏薬を温めてから皮膚に貼り付ける。
- 打ち身、捻挫、肩こり、神経痛、腰痛、リウマチに効能がある。薬袋などには、「いたむところによし」と謳われている[2]。
- あかぎれ用の固形タイプもあった。こちらは、熱した火箸で膏薬を削り取り、患部に食い込むように塗る[1]。
その他
[編集]歴代の森林平は相撲好きであり、治療に訪れた江戸相撲の力士に対し全快するまで無料で泊め、世話を行なった[7](治療に訪れた力士の為の部屋もあった[要出典])。明治以降も相撲に関わり、廃業後に浅井町へ移住した元力士も複数いたという[7]。浅井町で相撲の準場所が行なわれた事もある[要出典]。日本相撲協会も森家には特別の配慮を行なっていたという[要出典]。
現在、森接骨院は内科医院に代わったが、同じ場所に存在し、明治時代と思われる古い建物である。製造・販売をしていた森林平製薬も近くに現存する。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d 鈴木 2001, p. 177.
- ^ a b c d e f “愛知のニュース : 伝説の万能薬「浅井万金膏」を大捜索 市民の高齢者も「懐かしい」 最盛期は年間400万枚以上を手づくり”. テレビ愛知 (2023年9月6日). 2023年9月24日閲覧。
- ^ a b 鈴木 2001, p. 176.
- ^ 一宮市浅井町史 1967, p. 619.
- ^ 一宮市浅井町史 1967, p. 621-622.
- ^ 一宮市浅井町史 1967, p. 622.
- ^ a b 一宮市浅井町史 1967, p. 623.
参考文献
[編集]- 一宮市浅井町史編纂委員会 編『一宮市浅井町史』一宮市役所浅井支所、1967年。 NCID BN14405469。
- 鈴木昶「日本の伝承薬㊾ 浅井万金膏 鶴の伝説もある膏薬」『漢方臨床のための月刊漢方療法』第5巻第2号、2001年5月、176-179頁、CRID 1523669555868573568、NCID AA11270385。