池田斉成

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池田斉成
時代 江戸時代後期
生誕 文化6年11月3日1809年12月9日
死没 文政9年8月13日1826年9月14日
改名 牧野欣之進、池田辺、斉成
別名 辺(通称
官位 紀伊守侍従
備前岡山藩世嗣
氏族 池田氏
父母 池田政芳
池田斉政
池田斉政娘・金子
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池田 斉成(いけだ なりしげ)は、江戸時代後期の備前岡山藩の世嗣。通称は辺(ほとり)。官位紀伊守侍従

略歴[編集]

池田政芳(5代藩主・池田治政の三男)の長男として誕生。

元は旗本牧野成著の実子・欣之進として幕府に届出がされ、牧野家から旗本神尾守富の養子に迎えられていた。ところが、伯父で6代藩主・池田斉政の長男・斉輝、また斉輝の長男・本之丞が相次いで早世したため、養子縁組を取り消し、改めて池田政芳の三男・辺として届出がされた。その上で、文政3年(1820年)3月21日に幕府へ辺を斉政の養子とする出願がされ、3日後に認められた。さらに、斉政の実の娘である金子の婿養子という形がとられた[1]

辺は11代将軍・徳川家斉への御目見元服を果たし、斉輝と同様に将軍の偏諱を受け斉成と名乗る。しかし、家督相続前の文政9年(1826年)に17歳で早世した。

代わって薩摩藩主・島津氏から斉敏が金子の婿に迎えられ世嗣となり、家督を継いだ。

脚注[編集]

  1. ^ 大森映子『お家相続 大名家の苦闘』p.185-187