池田政昭
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時代 | 江戸時代後期(幕末) |
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生誕 | 文政6年12月14日(1824年1月14日)[1] |
死没 | 慶応元年8月10日(1865年9月29日)[1] |
改名 | 峯之助(幼名) |
別名 | 主水、出羽[1] |
墓所 | 天城池田家墓所(岡山県倉敷市) |
藩 | 備前岡山藩家老 |
氏族 | 池田氏(天城池田家) |
父母 | 池田政徳、輝子(池田政孝の娘) |
兄弟 | 政昭、日置忠尚(池田政信) |
妻 | 輝(浅野忠敬の娘、池田政徳養女)[1] |
子 | 万亀子(土倉正彦夫人)、政和、日置健太郎 |
池田 政昭(いけだ まさあき)は、江戸時代後期の備前岡山藩の家老。天城池田家第10代当主。別名・池田出羽[2]。
生涯
[編集]文政6年(1824年)12月14日、天城池田家第9代池田政徳(まさよし)の長男として生まれる。母は先々代当主池田政孝の娘輝子。
弘化2年(1845年)、父政徳の死去により天城領3万石を相続[1]。
安政2年(1855年)幕府からの預かり地であった安房北条陣屋に勤務し海防の任にあたった。文政4年(1857年)8月仕置家老となる。元治元年(1864年)11月、幕府より長州征討の命が下り、兵を引きいて出陣する。12月、征長総督徳川慶勝に藩主池田茂政の長州処分案の意見書を提出した。
家族・親族
[編集]父の池田政徳は生坂池田家出身で、天城池田家第8代当主池田政孝の娘輝子を娶って婿養子となった。弟の日置忠尚は岡山藩家老日置忠弼の養子となった。
『平成新修旧華族家系大成』は2男1女を記す。長女の万亀子は岡山藩家老土倉正彦の妻。男子は嫡男池田政和と、日置忠尚の養子となった日置健太郎(忠信)[1]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』(霞会館、1996年)