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水野成言

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
水野 成言
時代 江戸時代前期
生誕 慶長8年3月18日1603年
死没 天和4年1月13日1684年
改名 成忠(初名)、成言、令聲
戒名 勝壽院殿蓮誉安休居士
墓所 京都府本覚寺三源庵
官位 従五位下紀伊守、主馬
幕府 江戸幕府旗本小姓組番頭御側衆
主君 徳川家光
知行・5,000石
氏族 水野氏
父母 父:水野勝成、母:青木七之丞娘
兄弟 勝俊成貞勝則勝忠、心光院
正室:池田長幸
勝興(長男)[注釈 1]、勝行(次男)[注釈 2]
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水野 成言(みずの なりのぶ)は、江戸時代前期の旗本

備後国福山藩初代藩主・水野勝成の次男。初名・成忠。主馬、紀伊守従五位下。室は池田備中守長幸の娘。

生涯

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来歴

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慶長8年(1603年)、三河刈谷藩主水野勝成の次男として生まれる。母は青木七之丞の娘。父・勝成の所領より備後国安那郡5000石を分知し、元和6年に従五位下紀伊守に叙任。小姓組番頭御側衆を歴任し、寛永3年には徳川家光の上洛に従う。寛永9年、池田長幸宅において長幸の弟である池田長頼脇坂安経を刺殺した際、その現場に同席。成言も責任を問われ京都深草に蟄居し[注釈 3]、剃髪して令聲と号した[2][5]

天和4年(1684年)に病死し、京都本覚寺三源庵に葬られた。享年83。長男・勝興と次男・勝行は宗家の陪臣となった[1]

島原の乱

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寛永15年(1637年)、蟄居中の身でありながらも、父・勝成および兄・勝俊とは別に島原の乱へ出陣し、黒田忠之[注釈 4]のもとで戦功[注釈 5]をあげた[6]

脚注

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注釈

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  1. ^ 長男・水野又兵衛勝興は初め都築弾兵衛と名乗り、黒田忠之に仕えた。その後、水野家宗家の家臣となり、水野氏に復姓して源左衛門に改名、後に又兵衛と改めた。母は成言の正室、池田長幸娘である。勝成の孫であり、勝俊の母・香源院の孫でもあるとされる[1]
  2. ^ 次男・都築甚四郎勝行(別名・頼直[2])は長男・勝興の同母弟であり、水野家宗家の家臣となった[1]。子孫は宗家の結城転封時に再仕官し、水野氏に復姓した[3]
  3. ^ 『徳川実紀』には「御側水野紀伊守成言この騒動の座に有合しながら手を空しくせるをもて遂に踪迹をかくし隱遁せしとぞ」と記載されている[4]
  4. ^ 成言の長男・勝興は水野家宗家の家臣となる前に一時期、黒田忠之に仕えた[1]
  5. ^ 水野勝成は黒田忠之に宛てた書状において『随而せかれ紀伊守事かせき申鉢被仰越候、忝存候』と述べている[6]

出典

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  1. ^ a b c d 『広島県史 近世資料編 1』
  2. ^ a b 『寛政重修諸家譜』
  3. ^ 『小場家文書 下巻』
  4. ^ 『徳川実紀』
  5. ^ 『断家譜』
  6. ^ a b 『橋爪伸子, 2013』

参考文献

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  • 寛政重修諸家譜
  • 徳川実紀(紀伊記、紀年録、東武実録)
  • 断家譜
  • 広島県史 近世資料編 1 (広島県 編 広島県, 1973.2)
  • 島原の乱、福岡藩本陣における藩主の食にみる機能と食文化ー御台所日記をとおしてー(橋爪伸子, 2013)