毛利山城
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毛利山城 (岐阜県) | |
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別名 | 牛ヶ鼻砦 |
城郭構造 | 山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 斎藤利堯 |
築城年 | 1582年(天正10年) |
主な城主 | 西村治郎兵衛(加治田衆) |
廃城年 | 1583年(天正11年) |
遺構 | 曲輪、空堀、石垣 |
指定文化財 | 史跡等未指定[1] |
再建造物 | なし |
位置 | 北緯35度27分39.7秒 東経137度03分07.2秒 / 北緯35.461028度 東経137.052000度座標: 北緯35度27分39.7秒 東経137度03分07.2秒 / 北緯35.461028度 東経137.052000度 |
地図 |
毛利山城(もうりやまじょう)、または牛ヶ鼻砦(うしがはなとりで)[2]は、岐阜県美濃加茂市愛宕山[3]にあった日本の城(山城)。
概要
[編集]加治田城の南方7キロメートル、JR古井駅北方の飛騨川右岸に面した丘陵(愛宕山)上に位置し、川の断崖絶壁に臨む堅固な山城(要害)であった[4]。
岐阜城主・織田信孝の家老で加治田城主の斎藤利堯が、兼山城主・森長可の不穏な動きに対抗して天正10年(1582年)に築いた[5]。織田信孝も兵を遣わしていた。利堯の重臣・西村治郎兵衛を中心とする加治田衆が城代、城番を行っていた。
加治田・兼山合戦の前哨戦として、当城にて加治田衆と森軍が戦い、森軍の2度の攻撃に落城しなかった。両軍休戦となり、西村治郎兵衛ら加治田衆は本城の加治田城攻城戦のため引き揚げ[4]、空となった砦は同年7月3日(1582年8月1日)に各務元正らの森軍が占拠した[5]。
その後、森長可の領地加増のため城を統合し、加治田城と共に廃城となった[2]。
現在
[編集]城跡は「こびの天狗山」と呼ばれる宗教団体・荒薙教の本部敷地となっている。曲輪と空堀、石垣が残り説明板がある。眼下に飛騨木曽川国定公園の飛騨川を望む景勝地となっている。
脚注
[編集]- ^ 「美濃加茂市の指定文化財一覧」美濃加茂市民ミュージアム公式HP
- ^ a b 『南北山城軍記』
- ^ 「愛宕山(美濃加茂事典)」美濃加茂市民ミュージアム公式HP
- ^ a b 富加町 1980 pp.236-238
- ^ a b 「牛ヶ鼻砦(美濃加茂事典)」美濃加茂市民ミュージアム公式HP
参考文献
[編集]- 『兼山記』(近藤瓶城 1881『史籍集覧』108・『続群書類従第21輯 下」合戦部 所収)
- 富加町 1980「イ・牛ケ鼻砦前哨戦」『富加町史』pp.236-238
- 岐阜県郷土資料研究協議会 2007『南北山城軍記』ISBN 9784905687559