楊森 (四川)
楊森 | |
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Who's Who in China 3rd ed. (1925) | |
プロフィール | |
出生: | 1884年2月20日(清光緒10年正月24日)[1] |
死去: |
1977年(民国66年)5月15日[2] 中華民国台北市 |
出身地: | 清四川省順天府広安県竜台寺 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 楊森 |
簡体字: | 杨森 |
拼音: | Yáng Sēn |
ラテン字: | Yang Sen |
注音二式: | Yáng Sēn |
和名表記: | よう しん |
発音転記: | ヤン セン |
楊 森(よう しん)は、中華民国の軍人。川軍(四川軍)の指揮官で、北京政府、国民政府(国民革命軍)にも属した。旧名は淑沢、伯堅。字は子恵。
事績
[編集]北京政府時代
[編集]初めは学問を志し、順慶府聯合中学堂で学んだ。しかし軍人の道を志し、1904年(光緒30年)に四川陸軍速成学堂に入学している。1906年(光緒32年)、中国同盟会に加入する。1908年(光緒34年)に速成学堂を卒業し、四川の新軍である第17鎮に加入した。
民国成立後も四川軍にあったが、二次革命(第二革命)の際に当初革命派に属したため、滇軍(雲南軍)に捕えられ、そのまま滇軍に加入する。1915年(民国4年)12月、護国戦争(第三革命)が勃発すると、蔡鍔配下の第2梯団を率いる趙又新に随従して四川に戻った。
その後も、楊森はしばらく滇軍に属していた。しかし1920年(民国9年)3月、「川人治川」(四川人による四川統治)のスローガンに共鳴して、滇軍からの離脱を宣言し、川軍に復帰した。その後は、滇軍掃討などで活躍する。1921年(民国10年)2月、川軍第2軍軍長に昇進し、重慶に駐屯した。
後に楊森は、川軍の劉湘らと協力して、南方政府派の熊克武を撃破した。これにより、1923年(民国12年)8月、呉佩孚から中央陸軍第16師師長に任じられる。9月には陸軍中将となった。1924年(民国13年)3月、陸軍上将に昇進し、5月には四川督理に任命された。これにより成都に駐屯し、川軍内で最大勢力にまで台頭したのである。しかし、劉湘ら他の川軍指揮官の反感を買うことになってしまった。
1925年(民国14年)7月、楊森は、呉佩孚の支援により、四川統一の戦いを開始した。しかし、劉湘ら他の川軍指揮官の反楊連合結成を招いてしまい、さらに貴州軍の袁祖銘にも攻撃された。翌月、楊は惨敗を喫して四川を追われ、一時は呉を頼る。しかし、今度は劉と袁との対立が発生したため、楊は劉と和睦して四川に復帰し、袁を四川から駆逐した。1926年(民国15年)5月、呉から四川省長に任命された。9月には万県事件でイギリス軍と交戦している[3]。
国民政府時代
[編集]同年10月、中国国民党の勢力伸張を目の当たりにした楊森は、国民革命軍加入を宣言し、第20軍軍長に任命された。しかし、1928年(民国17年)1月に、呉佩孚を庇護した罪に問われて免職されるなど、その後の経歴は順風とは言えなかった。
それでも楊森は、着実に国民政府での経歴は積み重ねていく。1936年(民国25年)2月には、陸軍中将となった。日中戦争(抗日戦争)勃発後は、国民革命軍第6軍団軍団長として上海方面で軍事活動を展開した。1938年(民国27年)1月、第27集団軍総司令となる。1939年(民国28年)10月には、第9戦区副司令長官も兼ねた。
日中戦争終結直前の1945年(民国34年)1月、貴州省政府主席に任命される。1948年(民国37年)7月には、重慶市長に転じた。翌年6月には、西南軍政長官公署副長官も兼任している。同年12月、西南部での国民党軍壊滅に伴い、台湾へ逃亡した。以後、総統府国策顧問や全国体育協進会理事長、オリンピック運動委員会理事長などを歴任している。
1977年(民国66年)5月15日、台北で病没。享年94(満93歳)。
注
[編集]参考文献
[編集]- 徐必鴻「楊森」『民国高級将領列伝 1』解放軍出版社、1998年。ISBN 7-5065-0261-5。
- 呉嘉陵「楊森」謝本書主編『西南十軍閥』上海人民出版社、1993年。ISBN 7-208-01642-9。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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中華民国(国民政府)
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