桂塩鯛

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桂 塩鯛(かつら しおだい)は、上方落語名跡

かつての表記は旧字体の「鯛」。

  • 3代目桂塩鯛 - 本項にて記述。
  • 4代目桂塩鯛 - 桂都丸が襲名。

「塩鯛」の名跡は、元々、初代桂文團治の俗称および俳名で、奥目であったことから付いたあだ名。俗称ではあるが、初代文團治門下には「鯛蔵」「鯛團治」「鯛助」「小鯛」など、「鯛」字が付く弟子が多数いる。

なお『落語系圖』では、この塩鯛の名跡に関しては代数を振っていない。初代鹽鯛が、あくまでも初代文團治のあだ名扱いであったことによるものではないかとされている。

1929年に騒人社書局より出版された『名作落語全集』所載の『米揚げ笊』速記によると、

この落語は初代桂鹽鯛(初代文團治)の原作で御座いまして、これが塩鯛の名をつぎます者は必ず譲られる事に居ます。私は恰度三代目で、然し原作の時代と只今とは、時代も変ってきました…

と記載されており、これは2代目文團治(または3代目文團治)を2代目鹽鯛として代数に勘定したものであるとされる。ただし、2代目文團治(または3代目文團治)が鹽鯛の名跡を自ら名乗ったことがあるのかどうかは不詳。


3代目 かつら 鹽鯛しおだい
本名 岡本 蜜太郎
生年月日 1877年
没年月日 1943年3月15日
出身地 日本の旗 日本
師匠 2代目笑福亭勝鶴
初代笑福亭福松
4代目笑福亭松鶴
2代目桂米團治
弟子 桂鯛蔵
桂鯛次
桂鯛六
桂鯛丈
名跡 1.笑福亭勝壽(1899年 - 1904年)
2.笑福亭福壽(1904年 - 1908年)
3.2代目笑福亭萬歳(1908年 - 1911年)
4.太平洋たいへいよう鯱丸しゃちまる(1911年 - 1913年)
5.2代目桂米紫(1913年 - 1919年)
6.3代目桂塩鯛(1919年 - 1943年)
活動期間 1899年 - 1943年
活動内容 上方落語
配偶者 松川家妻奴(妻)
ひな(後妻)
所属 三友派
互楽派
吉本

3代目 桂 鹽鯛1877年 - 1943年3月15日)は、本名: 岡本 蜜太郎。初めて「鹽鯛」を正式に名乗った落語家上方噺家)である。

経歴[編集]

1899年1月、2代目笑福亭勝鶴の門下で勝寿(勝壽)を名乗る。1899年1月の神戸湊亭が初高座。1904年頃、初代笑福亭福松の門下で笑福亭福壽。1908年4代目笑福亭松鶴の門下で2代目笑福亭萬歳となるが、気難しい師匠との関係が上手く行かなくなり、大正1911年2年頃)に入り互楽派に移って太平洋たいへいよう鯱丸しゃちまるを名乗る。1913年頃、2代目桂米團治(後の3代目桂文團治)の門下で2代目桂米紫となり、1919年頃に鹽鯛を襲名。

非常に小柄で童顔だったためか「ベビーハナシカ」などと呼ばれた。老巧な芸風で、廃業する昭和初年頃までは第一線で活躍していた。落語番付でも横綱、大関にはなれなかったが、前頭には落ちず、常に三役を保つほどだった。1929年頃には吉本興業を脱退し、大阪市港区市岡で「雨風屋」という喫茶店を開きながら、主にお座敷やラジオなどで芸を披露するのみとなった。

十八番は『舟弁慶』『口入屋』『裏の裏』『袈裟茶屋』など。米紫時代には『日和小町』『廻り猫』などのSPレコードの録音を残している。

福壽時代の妻は松川家妻奴と言い、三味線の名手で、「堀江六人斬り」で両腕を失った松川家妻吉(本名: 大石よね、後に出家して大石順教)の伴奏で有名になった。後妻の名は「ひな」と言い、戦後まで下座で活躍した。

弟子には鯛蔵、鯛次、鯛六、鯛丈等がいた。

後年に都丸の襲名に際して、研究家の豊田善敬が再調査したところ、塩鯛の子孫が存命であることが判明した[要出典]

出典[編集]

  • 『落語系圖』(月亭春松編)
  • 『古今東西落語家事典』(平凡社、1989年)
  • 『ご存じ古今東西話噺家紳士録』(CD-ROM、APP、2005年) - こちらでは岡本蜜太郎の塩鯛を2代目として勘定している。