林雲陔
林雲陔 | |
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プロフィール | |
出生: |
1881年2月2日 (清光緒7年正月初4日) |
死去: |
1948年(民国37年)10月4日 中華民国 |
出身地: | 清広東省高州府信宜県 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 林云陔 |
簡体字: | 林雲陔 |
拼音: | Lín Yúngāi |
ラテン字: | Lin Yün-kai |
和名表記: | りん うんがい |
発音転記: | リン・ユンガイ |
林 雲陔(りん うんがい)は、清末民初の革命家・政治家・銀行家。中国同盟会以来の革命派人士で、後に中国国民党に加入した。西南派の一員でもある。もとの名は公競。字は毅公。広東省高州府信宜県の出身。
事跡
[編集]高州府城の海山書院で旧学を学ぶ。1909年(宣統元年)、広州に赴き、両広方言高等学堂で学ぶ。このとき、中国同盟会に加入した。1911年(宣統3年)4月、黄花崗戦役に朱執信の下で参加したが、革命派は敗北した。1912年(民国元年)に方言学堂を卒業すると、高州で蜂起に参加し、成功後に高雷都督に任ぜられている。
その後、渡米してニューヨーク州の大学[1]で法律・政治を学ぶ。1918年(民国7年)に帰国し、上海で雑誌『建設』の編集に携わった。1920年(民国9年)、孫文(孫中山)に随従して広州に赴き、大元帥府秘書に就任したほか、土地登記局局長、広東省教育委員会教育雑誌社社長も兼ねた。
1921年(民国10年)12月、広東大本営金庫長兼広西銀行行長となる。1923年(民国12年)、広州市政府委員長に任ぜられる。同年3月、大本営金庫長兼大本営財政部第3局局長となる。5月、中央銀行行長となった。12月、広東高等審判庁代理庁長に転じている。1924年(民国13年)4月、法制委員会委員となる。8月、中央銀行董事(理事)となった。10月、大本営財政部次長兼塩務署署長となる。1925年(民国14年)7月、広東省政府高等検察庁検察長に転じた。以上のように、孫文の広東政府において林雲陔は財務・法務の幹部としての地位を歴任したのである。
1927年(民国16年)4月、広州市政府委員長に復帰する。1929年(民国18年)3月、中国国民党第3期中央候補監察委員に選出された(第4期も同様)。7月、広東省政府委員に任ぜられる。11月、広州市が特別市に昇格し、そのまま林雲陔が特別市長をつとめた。1931年(民国20年)5月、広州市市長から広東省政府主席に昇進し、同省財政庁庁長も兼ねた(同年12月まで)。1932年(民国21年)、西南派による西南政務委員会常務委員に任ぜられる。1935年(民国24年)11月、国民党中央監察委員に選出された。広東にあった間、林雲陔は広東省の実力者であった陳済棠に従い、内政面で手腕を振るった。
1936年(民国25年)7月、陳済棠が両広事変に敗北して失脚すると、林雲陔も広東省政府主席を離れ、蒙蔵委員会委員長に転じる。しかし翌月には審計部部長に移った。以後、死去するまで12年にわたり在任した。
1948年(民国37年)10月4日、病没。享年68(満67歳)。
脚注
[編集]- ^ 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』によれば、「聖理喬斯大学」で学んだとされる。セント・ジョーンズ大学のことか。
参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(国民政府)
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