松島寛三郎

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松島寛三郎(まつしま ひろさぶろう、1875年4月1日 - 1956年4月22日)は、日本の鉄道技術者・鉄道官僚京阪電気鉄道常務取締役。

来歴・人物[編集]

広島県比婆郡口北村(現庄原市)に生まれ、13歳の時に単身同志社中学(現同志社中学校・高等学校)に入学。第一高等中学校経て、1897年(明治30年)卒業。東京帝国大学に合格するが、その年に新設される京都帝国大学に振り分けられた。第一高まで野球部に所属しており、京大在学中に同支社中の野球部のコーチに招聘されている。現在の同志社大学硬式野球部の基礎を作り上げたとも言われる[1]

京大工学部一期生として1900年(明治33)卒業。同年10月に山陽鉄道に入社し、1906年(明治39)の国有化後は鉄道作業局湊町保線事務所長、北海道鉄道管理局工務課長、名古屋鉄道管理局工務課長等を歴任。

1920年(大正9)に長谷川謹介に請われ、東海道電気鉄道(現名古屋鉄道)に入り、再び実業界に戻った。1922年(大正11)には新京阪鉄道の設立に参加し、取締役技師長兼支配人となる。社長の太田光熈の片腕として社務を仕切り、新京阪の建設経営の中心人物として活躍することになる。1930年(昭和5年)の親会社京阪電気鉄道との合併後は、常務取締役を務めた。1940年(昭和15)同社退職。

事績[編集]

出典[編集]

土木学会誌第四十一巻 第六号 昭和31年6月

脚注[編集]

  1. ^ 京機短信” (PDF). 京都大学機械系工学会(京機会) (2011年6月5日). 2020年8月21日閲覧。