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杵屋彌三郎

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杵屋 彌三郎(きねや やさぶろう)は、長唄三味線方の名跡。新字体は弥三郎。代々「弥三郎派」の家元と称する。

初代

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(生年不詳 - 宝暦8年(1758年))俳名は扇遊。

4代目杵屋六左衛門または6代目杵屋喜三郎または7代目杵屋喜三郎の門弟。1753年に立三味線。作曲に優れ「執着獅子」を残す。大薩摩節も得意とした。

2代目

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生没年不詳

初代彌三郎の子とも。1770年に立三味線。初代富士田吉次の相三味線で活躍。初代没後まもなく2代目彌三郎を襲名。作曲に「菊三番」「千代見草栄丹前」を残す。

3代目

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(生年不詳 - 天保1年(1830年)頃)

2代目彌三郎の養子といわれる。杵屋錦次郎が1814年森田座で3代目彌三郎を襲名。

4代目

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文化14年(1817年) - 明治36年(1903年))

4代目富士田音蔵の弟。初代杵屋三五郎門弟から10代目杵屋六左衛門の門弟。三平から2代目杵屋辰三郎を経て1856年に4代目彌三郎を襲名。1858年に立三味線。

5代目

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安政4年(1857年) - 明治45年(1912年4月10日

4代目彌三郎の次男の杵屋八十七が4代目彌三郎が没後まもなく襲名。

6代目

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(明治30年(1897年) - 昭和24年(1949年))

父は歌舞伎役者の中村勘助、実子に東千代之介

7代目

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大正13年(1924年2月4日 - 平成4年(1992年11月2日)本名は若和田邦夫。

東京四谷の生まれ、6代目の子。1944年東京音楽学校後に山田抄太郎に師事。同年に7代目彌三郎を襲名。1948年に京都祇園八坂女紅場学園の講師となり「都をどり」の指導・作曲に尽力。

8代目

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7代目の妻・若和田美代子が襲名。