李周一
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李周一 이주일 | |
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生誕 |
1918年11月14日 日本統治下朝鮮咸鏡北道鏡城郡 |
死没 |
2002年1月28日(83歳没) 大韓民国ソウル特別市 |
所属組織 |
満州国軍 韓国光復軍 大韓民国陸軍 |
軍歴 |
1943-1945(満州国軍) 1945-1946(光復軍) 1948-1963(韓国陸軍) |
最終階級 |
中尉(満州国軍) 大将(韓国陸軍) |
除隊後 | 監査院院長 |
李 周一(イ・ジュイル、이주일、1918年11月14日-2002年1月28日)は、大韓民国の軍人、政治家。
経歴
[編集]1918年11月、咸鏡北道に生まれる。光明中学校卒業。新京軍官学校予科卒業(第1期)、成績優秀のため朴林恒、崔昌彦らと共に陸軍士官学校に留学(第56期相当)。卒業後は満州国軍将校となり終戦時は中尉。
終戦後、申鉉俊や朴正煕と共に北平に到り、ここで韓国光復軍に編入され第3支隊平津大隊第1中隊長となった[1]。
1948年12月、陸軍士官学校卒業(特別第7期)、任大尉(軍番11638番)。
1949年、朴正煕の伝手で南朝鮮労働党党員になり、麗水・順天事件に関わった容疑で逮捕される[2]。
1950年7月、第2軍団作戦部長。 1950年12月10日、第28連隊長(大領)[3]。
1952年10月の白馬高地の戦いに参加。
1953年、陸軍大学卒業。
1954年、第12師団長。
1956年、国防大学院卒業。
1959年6月、第2軍参謀長[4]。副司令官が朴正熙少将であり1961年5月の5・16軍事クーデターの首謀者の1人になる。
クーデター後は軍事革命委員会委員、国家再建最高会議最高委員、国家再建最高会議人事小委員、不正貯蓄処理委員会委員長を務める。
1961年、国家再建最高会議の常任委員、財政委員長、副議長を歴任。
1962年1月、中将に昇進[5]。3月、オリンピック委員会委員長兼大韓体育会会長。
1963年5月、同志会副会長。12月、予備役編入。
1964年、監査院院長。
脚注
[編集]- ^ 김관후 (2015年12月17日). “共匪達と血縁関係を持ったせいで…” (朝鮮語). 제주의소리 2016年1月5日閲覧。
- ^ 정운현 (2004년 8월 9일). “좌익혐의로 무기징역... 재심서 '구사일생' - [실록 '군인 박정희'-친일과 좌익의 기록 1] 1949년 군사재판”. 오마이뉴스. 2008년 2월 27일에 확인함.
- ^ “對非正規戰史(1945~1960)” (PDF). 韓国国防部軍史編纂研究所. p. 164. 2020年2月12日閲覧。
- ^ “將星級 15名 異動” (朝鮮語). 부산일보. (1959年6月2日) 2020年2月12日閲覧。
- ^ “金鍾五中將 大將에 昇進 李周一少將은 中將으로” (韓国語). 国史編纂委員会. 2016年1月5日閲覧。