本渡諏訪神社

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本渡諏訪神社
所在地 熊本県天草市諏訪町8-3
位置 北緯32度27分17.5秒 東経130度11分18.8秒 / 北緯32.454861度 東経130.188556度 / 32.454861; 130.188556 (本渡諏訪神社)座標: 北緯32度27分17.5秒 東経130度11分18.8秒 / 北緯32.454861度 東経130.188556度 / 32.454861; 130.188556 (本渡諏訪神社)
主祭神 建御名方神
八坂刀売神
八幡大神
社格 旧県社
創建 1283年(弘安6年)8月1日
本殿の様式 入母屋造
例祭 11月1日-7日
主な神事 本渡の市(11月1日-7日)
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本渡諏訪神社(ほんどすわじんじゃ)は、熊本県天草市にある神社。二度に亘る元寇の折、本渡城主の天草大夫大蔵太子(あまくさだゆうおおくらふとこ)という女傑が水軍を率いて出陣し、諏訪大明神の御加護により戦功をいただいた神恩に感謝し、弘安6年(1283年8月1日、天草氏領土内の総鎮守として諏訪大社より御分霊を奉じた神社である。

祭神[編集]

現在の祭神は次の3柱。

歴史[編集]

弘安6年(1283年)8月1日の創祀。鎌倉時代文永11年(1274年)、並びに弘安4年(1281年)の二度に亘る元寇の折、本渡城主の播磨局(天草大夫大蔵太子)が天草の水軍を率いて出陣した。天草軍は諏訪大明神の御加護により日本未曾有の国難に対し、神風をもって御守護いただき輝かしい戦功を立てることができたため、大蔵太子は神恩に感謝し、2年後の弘安6年(1283年)8月1日に天草氏領土内の総鎮守として、信濃国諏訪の御本社より諏訪大明神の御分霊を奉じ、本砥郷山口の里に鎮祭して創祀された。

爾来、天草氏の氏神また郷中の総社として広く崇敬された。しかし、寛永14年(1637年)の島原・天草の乱で他の社寺と共に一揆勢の手による兵火にかかり、社殿および神宝旧記を悉く焼失した。乱の後、天草は江戸幕府の天領となり、初代代官・鈴木重成(のち本町鈴木神社の御祭神)が着任した。鈴木重成は復興策の一環として、土地の神社仏閣の復旧に務め、人心の安定を計ったが、特に当神社の再建を急がせた。乱から6年後の寛永20年(1643年)に海岸浜宮の地(現在の中央銀天街)に新社殿を造営し、これまでの本砥郷山口の里より遷座した。

弘安6年(1283年)から寛永20年(1643年)までの360年間、第1次鎮座地であった天草市本渡町山口には、「諏訪神社旧趾」の記念碑があり、その御鎮座の由緒を伝えている。

第2次鎮座地である現在の天草市中央新町銀天街アーケード中心地には、寛永20年(1643年)から大正4年(1915年)までの272年間鎮座していた。この時、初代代官・鈴木重成は島原・天草の乱以後に荒廃した島の耕作の便宜をはかり、当神社の例大祭であった8月1日(現在では11月1日より7日)に七日間の「農具市」を開かせた。当時、島内には商店は少なかったため、この農具市が次第に「雑貨市」に広がり、島民は農具だけでなく一年間の生活必需品の一切を買い求める「本渡の市」へと年々発展した。

その後、明治初期には天草五郷社のひとつとして郷社に列格された。大正4年(1915年)に旧庄屋大谷家の屋敷跡であった現在地に遷座した。大正6年(1917年)に町山口諏訪神社から「本渡諏訪神社」に社名が変更され、昭和20年(1945年)8月1日には、天草の代表神社・総鎮守として「県社」に昇格された。今日に於いても、諏訪大神の御守護、御神徳が天草島の繁栄の原動力となったとされ、人々の営みの守り神として篤く信仰されている。

境内[編集]

  • 社殿
    入母屋造銅板葺の拝殿は、平成2年(1990年)11月に、明仁天皇御即位大典、並びに皇紀2650年を記念奉祝して改修されたもの。本殿は文久3年(1863年)に建立されたもので入母屋造。
  • 恵比須神社
    御祭神は事代主大神江戸時代のいつの頃よりか本渡諏訪神社の第2次鎮座地に境内社として奉斎され、諏訪大明神とともに「本渡市」繁栄の基を開いたお社である。昭和39年(1964年)春に現在の地に遷座。平成6年(1994ン3ん)10月に、本渡町中央商店街大火災復興30周年、市制発足40周年を記念し氏子崇敬者の赤誠を結集して新社殿が建立された。夏秋の「ゑびす祭」は盛大で、商売繁盛・大漁満足・家内安全等の守護神として篤く尊崇の念を集めている。
  • 御霊神社
    御霊神社は、氏子戦没英霊を合祀したもので、昭和24年(1949年)10月18日、靖國神社秋季例大祭の当日の建立創始。平成8年(1996年)12月に創祀された氏子祖霊社も社内に奉斎されている。
  • 靖國之碑
    本渡町遺族会による終戦40周年記念事業として建立された碑。主碑「靖國之碑」の揮毫は靖國神社第6代宮司・松平永芳によるもの。左右の副碑には、本渡町出身の戦没英霊302柱の芳名と、遺族会役員名が記されている。例祭日は8月15日。建立時の本渡諏訪神社の宮司であった大野俊康は、平成4年(1992年)4月には靖國神社第7代宮司に就任し、靖國神社の鎮魂社の公開に寄与したことでも知られている。

天草では地域ごとに縁深い三柱の神さまに併せて阿蘇十二神を祀る十五社神社が多く鎮座している。また、古くより耳病治癒の神さまとして信仰されている。

  • 子抱き獅子
    社殿前参道に並ぶ「子抱き獅子」は、全国的にも珍しく、子授け、安産、育児、家内安全等、子孫繁栄の象徴として信仰され、親しまれている。
  • 大関栃光正之之像と力石
    大関栃光正之は天草市牛深町深海出身の名大関で当神社を深く崇敬し、境外広場での地方巡業は6回にも及ぶ。本格的な押し相撲と、一度も「待った」なしの立ち合いは力士の鑑と仰がれ、男児の生育の象徴として親しまれた。その銅像と少年時代に試したといわれる力石(88キログラム)が境内で祭られている。

文化財[編集]

  • 天草太鼓
    信州諏訪の御本社より諏訪大明神の御分霊を奉じて、本砥郷山口の里に鎮祭される道中では「御諏訪太鼓」を奏でつつ御神幸されたとされ、天草市本渡町山口の浜に上陸した際にも盛大に太鼓が奏されたとされていることから、昭和49年(1974年)に太鼓は「天草太鼓」として復活された。
  • 一対の大蘇鉄
    天草市指定文化財に昭和47年(1972年)指定。大正5年(1916年)に氏子の森邦太郎・鶴田八十八の両氏が奉納した社殿両脇に構える大蘇鉄は、10年ほど前より全国的にも珍しく蘇鉄に自生した蘭が花を咲かせ、毎年5月の始め頃に見頃を迎える。

交通アクセス[編集]

参考文献[編集]

  • 下中邦彦編(1985)『熊本の地名』p.890, 平凡社
  • 上米良晴(純臣), 高野和人編(1986)『熊本県神社誌』p.279, 青潮舎
  • 神社本庁調査部編(1957)『神社名鑑』p.889-890, 東邦図書出版

周辺史跡・名勝[編集]

  • 鈴木神社

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

【公式】本渡諏訪神社 ~熊本県天草の総鎮守~