本多忠方
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 宝永5年(1708年) |
死没 | 享保16年5月16日(1731年6月20日) |
改名 | 平七郎(幼名)、忠方 |
別名 | 監物(通称) |
戒名 | 深高院殿前肥州宰吏勇誉真哲大居士 |
墓所 | 兵庫県宍粟市山崎町上寺の大雲寺 |
官位 | 従五位下肥後守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗 |
藩 | 播磨山崎藩主 |
氏族 | 本多氏(平八郎家) |
父母 | 父:本多忠英、母:小池三平の娘 |
兄弟 | 忠良、忠方、忠辰、忠強、花房職勝正室 |
妻 | 正室:増山正任の娘 |
子 | 養子:忠辰 |
本多 忠方(ほんだ ただみち)は、江戸時代中期の大名。播磨国山崎藩の第2代藩主。政信系本多家3代。初代藩主・本多忠英の次男。
生涯
[編集]兄の忠良が宗家の越後村上藩を継いだため、享保3年(1718年)に父が死ぬと家督を継ぐこととなった。先祖の忠勝にあやかりたいという気持ちがあったらしく、藩政においては窮民を助けるなど力量を見せたが、享保の大飢饉がとどめとなって藩政は荒廃した。それでも忠方は藩政の再建を目指したが、そのような最中の享保16年(1731年)5月16日に24歳で死去した。子がなく、跡を弟の忠辰が継いだ。