望月金鳳

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望月 金鳳(もちづき きんぽう、弘化3年3月3日1846年3月29日[1] - 大正4年(1915年6月18日)は、日本明治時代に活躍した四条派日本画家

略伝[編集]

大坂平野町(現在の大阪市中央区)で、接骨医・平野浄恵の次男として生まれる。幼名は数馬、後に学、別号を小蟹。後に望月家を継いだ。

9歳頃、林仁鳳に円山派の手ほどきを受け、この頃は芳林と号した。後に四条派の西山芳園完瑛にも学び、金鳳と号する。17歳のとき剣道で身を立てようと養家を去り新陰流を修め、京都近辺の志士剣客と交わる。しかし、時勢の変化で武術の道は諦め、22、23歳ごろ諸国を遊歴する。明治9年(1976年)上京して内務省で勤めた後、開拓使へ仕官した。30歳から15年間北海道で官吏として暮らすなか、多くの動物を飼いながらその生態を観察して写生に努めた。

明治15年(1882年)第1回内国絵画共進会に北海道から作品を送る。明治23年(1890年)職を辞して再び上京。第3回内国勧業博覧会に出品し、浅草松清町に塾を開く。主に日本美術協会に動物画を出品し、しばしば賞を得た。明治29年(1896年)日本絵画協会が結成されると、「枯木悍鷲」で一等褒状を受賞する。しかし、明治31年(1898年)日本絵画協会の審査方針に不満を抱いた野村文挙鈴木華邨らと日本画会を結成し、その審査員となる。「新機軸」という言葉を嫌い、拙くても自分で研究した絵を描けと門弟に指導した。明治40年(1907年)第1回文展では審査員選定の不満から高島北海益頭峻南らと正派同志会を組織し幹事となった。翌第2回文展からは出品し審査員も務め、日本美術協会出品作はしばしば宮内庁買上げとなった。大正4年(1915年)動脈瘤のため死去。享年69。跡は養子望月青鳳が継いだ。

作品[編集]

作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 落款・印章 備考
枯木寒鳶図 絹本墨画 1幅 154.2x85.9 三の丸尚蔵館 1899年(明治32年) 款記「金鳳」/「金朋」朱文瓢印 同年11月の日本美術協会秋季美術展覧会3等賞銅牌、宮内庁買上げ[2]
金閣寺 絹本淡彩 28.9x22.1 飯田市美術博物館 1903年(明治36年)
孔雀之圖 絹本墨画 1幅 178.4x95.4 嘯月美術館 1914年(大正3年)
月に狸 絹本墨画 1幅 115x42 韓国国立中央博物館[3] 不詳 款記「金鳳」/朱文方印

脚注[編集]

  1. ^ 『日本現今人名辞典 訂正3版』(日本現今人名辞典発行所、1903年)も5頁
  2. ^ 宮内庁三の丸尚蔵館編集 『明治美術再発見3―近代日本画への途 明治30年代~大正初期 三の丸尚蔵館展覧会図録No.11』 財団法人菊葉文化協会、1996年3月26日、pp.11,63
  3. ^ 京都国立近代美術館 東京藝術大学大学美術館 朝日新聞社編集 『―韓国国立中央博物館所蔵―日本近代美術展』 NHK 朝日新聞社、2003年4月3日、第15図。

参考文献[編集]

  • 日本美術院百年史編集室企画・編集 『日本美術院百年史 第一巻 上』 日本美術院、1989年4月、p.664