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日野家光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
日野家光
時代 鎌倉時代前期
生誕 正治元年(1199年
死没 嘉禎2年12月14日1237年1月12日
改名 家光→光寂(法名)
別名 藤原家光
官位 従二位権中納言
主君 土御門天皇順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇四条天皇
氏族 藤原北家真夏日野家
父母 父:日野資実、母:平棟子(平棟範の娘)
兄弟 家宣家長家光光国、光恵、光厳、兼性、忠承
藤原忠綱の娘
資定資宣資兼
養子:光国宗恵
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日野 家光(ひの いえみつ)は、鎌倉時代前期の公卿藤原北家真夏日野家権中納言日野資実の三男。官位従二位・権中納言。日野家15代当主。

経歴

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元久2年(1205年文章生になり、承元3年(1209年)に秀才となる。

承元4年(1210年越中大掾に初任。承元5年(1211年)には右衛門尉に任ぜられる。六位蔵人を経て建暦3年(1213年従五位下宮内権大輔に叙任され、昇殿を許された。建保3年(1215年)に従五位上に叙され、建保5年(1217年)に大隅守を兼任。承久3年(1221年右少弁に任ぜられ、貞応元年12月(1223年1月)に従四位下・権右中弁に叙任される。嘉禄元年(1225年蔵人頭に補され、同年中に参議に任ぜられ公卿に列し、左大弁を兼ねた。

嘉禄2年(1226年従三位周防権守となる。寛喜3年(1231年)に正三位・権中納言に叙任されるが、病に依り文暦2年(1235年)に辞任した。嘉禎2年(1236年)に従二位に叙されるが、出家して嘉禎2年12月14日(1237年1月12日)薨去。享年38。

官歴

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※以下、『公卿補任』の記載に従う。

  • 元久2年(1205年)4月5日:文章生に補す。
  • 承元2年(1208年)2月:院非蔵人。
  • 承元3年(1209年)正月:秀才。
  • 承元4年(1210年)正月:越中大掾に任ず。
  • 承元5年(1211年)3月4日:献策(成信問)。4月1日:右衛門尉に任ず。
  • 建暦2年(1212年)正月:六位蔵人に補す。4月9日:使。
  • 建暦3年(1213年)正月16日:従五位下に叙爵。昇殿を聴す。4月7日:宮内権大輔に任ず。
  • 建保3年(1215年)正月6日:従五位上に叙す。
  • 建保5年(1217年)正月28日:大隅守に兼ぬ(巡蔵人、輔如元)。
  • 建保6年12月16日(1219年1月4日):東宮学士に補す。
  • 建保7年(1219年)正月22日:守を止む。閏2月25日:五位蔵人に補す。
  • 承久2年(1220年)正月26日:正五位下に叙す。
  • 承久3年(1221年)4月20日:学士を止む(踐祚)。更蔵人。8月:新帝昇殿。8月2日:服解(母)閏10月19日:右少弁に任ず。
  • 貞応元年(1222年)4月13日:左少弁に転ず。12月21日(1223年1月25日):権右中弁に転ず。12月26日(1月30日):従四位下に叙す(宣陽門)。
  • 貞応3年(1224年)10月16日:右中弁に転ず。同月:右宮城使を兼ぬ。10月29日:従四位上に叙す。
  • 嘉禄元年(1225年)4月27日:従四位上に叙す[1]。7月6日:蔵人頭に補す。左中弁に転ず。12月21日(1226年1月20日):参議に任ず。左大弁を兼ぬ。
  • 嘉禄2年(1226年)正月23日:丹波権守を兼ぬ。正月24日:造東大寺長官を兼ぬ。4月19日:正四位下に叙す(臨時)。11月4日:従三位に叙す(臨時)。
  • 寛喜2年(1230年)正月24日:周防権守を兼ぬ。
  • 寛喜3年(1231年)正月6日:正三位に叙す(弁労)。4月26日:権中納言に任ず。
  • 文暦2年(1235年)4月16日:病に依りて辞す。
  • 嘉禎2年(1236年)2月30日:従二位に叙す。

系譜

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脚注

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  1. ^ 記載が二度ある。