後藤正雄

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後藤 正雄(ごとう まさお、1892年 - 1972年[1])は、日本の飛行機操縦士政治家

兵庫県有馬郡中野村下青野(現・三田市)の出身[1]。兵庫県立柏原中学校(現・兵庫県立柏原高等学校)から歩兵第70連隊での軍務を経て帝国飛行協会の飛行士練習生試験に合格する。第二期生として入所[1][2]。1917年5月帝国飛行協会兵庫支部の要請を受け篠山練兵場から三田(現三田市下田中)までモーリスファルマン式飛行機で郷里訪問飛行を行った。1918年4月1日、所沢飛行場から大阪練兵場までの単身長距離無着陸飛行に成功する[1][3][4]。 その後、四国一周および岡山県訪問飛行を同期生の佐藤飛行士と成功させた。

1919年帝国飛行協会を辞職、1927年に郷里の中野村の村長に就任する[1][5]1943年に中野村と貴志村北部との合併を実現した。合併し誕生した村名を広野村とし初代村長を務め、村の財政立て直しに尽力した。[1]。村長引退後は農業委員を長年務めた。1967年青野ダム建設計画が発表されると地元住民から反対期成同盟会の会長に推され初代会長を務めた。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 後藤正雄 - NPO法人歴史文化財ネットワークさんだ
  2. ^ 二十有三年の昔代々木で初飛行 (上) - 時事新報1933年8月21日(神戸大学図書館新聞記事文庫)
  3. ^ 4月のできごと - 大阪市史編纂所(今日は何の日)
  4. ^ 1933年の時事新報記事は「大正6年」(1917年)としている。
  5. ^ 歴史文化財ネットワークさんだの資料には、「帝国飛行協会が解散後、操縦士を引退」とあるが、協会がその時期に解散した事実はない[1]