平秩東作

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

平秩 東作(へづつ とうさく、享保11年3月28日1726年4月29日) - 寛政元年3月8日1789年4月3日))は、江戸時代後期の戯作者狂歌師漢詩人文人である。幼名は八十郎、後に八右衛門。姓は立松、名は懐之(かねゆき)[1]。字は子玉[1]。平秩東作は戯号。号は東蒙山・嘉穂庵[1]。父は元尾州藩士で屋号は稲毛屋金右衛門。後に東作が父の屋号を引き継いだ。

経歴[編集]

内藤新宿の馬借稲毛屋金右衛門の子として生まれる[1]。10歳頃から漢学や和学を学び、宝暦末年頃に大田南畝と知り合い、生涯親交を持つ[1]。東作10歳のときに父道佐が死去し、14歳のとき、父の後を継ぎ煙草商になった。平賀源内と親交を持ち、伊藤蘭嵎が師であったという説もある[2]1773年安永2年)から翌年にかけて、伊豆天城山で炭焼き事業を始め、1775年(安永4年)には材木商を営む[3]

狂歌界との関わりも深く、1769年明和6年)唐衣橘洲主催の狂歌会に参加し、1785年天明5年)10月には自身が中心になり『百鬼夜狂』を刊行した[1]。その間、1783年(天明3年)から翌年まで、松前江差に滞在し、アイヌの人びとの風俗や蝦夷地の風土についての見聞を記した『東遊記』を著した[4][注釈 1]1786年(天明6年)、横領罪で失脚した勘定組頭土山宗次郎が逃亡潜伏した際、所沢の山口観音に匿ったことが発覚し、「急度叱」の咎めを受けた[1]。これがきっかけとなり、狂歌界とも疎遠になった[1]

寛政元年3月8日、病死[5]。近世文学研究者の井上隆明は、東作を「戯作的に生きた戯作者である」と評した[3]

逸話[編集]

  • 身長5尺に足らぬ小男であったという[3]
  • 1765年(明和2年)浄土真宗の秘教組織に偽装信者として潜入し、その一味を石谷清昌へ密告したが、東作自身も厳しい詮議を受ける[5]。結局、自身への疑いは晴れ、褒美銀3枚を頂戴した[5]
  • 1783年(天明3年)から翌年まで、蝦夷地に逗留して『東遊記』を著した。この蝦夷地探索は隠密行動であり、上記の「急度叱」を招く遠因となった[1]
  • 平賀源内が獄死したのち、罪人である遺体の引き取り手のなかった中、公儀に目をつけられるのを覚悟の上で東作が引き取ったとされる。

作品[編集]

  • 『駅舎三友』(安永8年)
  • 『当時阿多福仮面』(安永9年)
  • 『納太刀誉鑑』(安永8年)- 浄瑠璃。紀上太郎との合作。
  • 『二国連璧談』
  • 『東遊記』
  • 『狂歌師細見』
  • 『狂歌百鬼夜狂』 - 天明5年。狂歌集。
  • 『怪談老の杖』
  • 『莘野茗談』 - 随筆。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 勘定奉行の松本秀持は平秩東作よりアイヌの風俗や蝦夷地の産物等について情報を得て、1784年(天明4年)10月、蝦夷地実地踏査に踏み切り、2度の調査隊を派遣した[4]。そのなかには最上徳内も含まれていた[4]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i 岡本・雲英編『新版近世文学研究事典』(2006)p.272
  2. ^ 三村竹清『本之話』岡書院、1930年、32頁。 
  3. ^ a b c 棚橋正博井上隆明著『平秩東作の戯作的歳月 付・南条山人年譜 江戸天明文壇形成の側面』」『国文学研究』第115巻、早稲田大学国文学会、1995年3月、129-132頁。 
  4. ^ a b c 賀川(1992)pp.115-119
  5. ^ a b c 井上隆明『平秩東作と周辺』日本近世文学会、1990年。doi:10.20815/kinseibungei.51.0_1https://doi.org/10.20815/kinseibungei.51.0_12022年6月13日閲覧 

参考文献[編集]

  • 岡本勝雲英末雄 編『近世文学研究事典』おうふう、2006年2月。ISBN 978-4273033842 
  • 賀川隆行『日本の歴史11 崩れゆく鎖国』集英社、1992年7月。ISBN 4-08-195014-8 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]