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小泉恭次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小泉 恭次
生誕 1886年2月2日
日本の旗 日本 山形県米沢市
死没 (1946-12-10) 1946年12月10日(60歳没)
日本の旗 日本 東京都三鷹市
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1905年 - 1939年
1945年
最終階級 陸軍中将
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小泉 恭次(こいずみ きょうじ、1886年明治19年)2月2日[1] - 1946年昭和21年)12月10日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。

経歴

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1886年(明治19年)に山形県米沢市で生まれた[2]興譲館中学校二年を経て、仙台陸軍幼年学校卒業[2]1905年(明治38年)に陸軍士官学校第18期を卒業し[1][2]1906年(明治39年)に歩兵少尉任官[2]1915年(大正5年)に陸軍大学校第27期卒業[1][2]1927年(昭和2年)に天津駐屯歩兵隊長に就任し[2]済南事件が発生した際には日本人居留民の保護に当たった[3]1928年(昭和3年)に東京警備司令部参謀を経て[2]1930年(昭和5年)に陸軍歩兵大佐に進級し[4]名古屋連隊区司令官に就任[4]1932年(昭和7年)に歩兵第16連隊長に転じ[4]満州事変に出動、馬占山軍と交戦した[3]

1933年(昭和8年)に近衛歩兵第1連隊[4]1935年(昭和10年)3月に仙台陸軍教導学校長と歴任し[4]、8月に陸軍少将に進級[4]1936年(昭和11年)には二・二六事件の責任を問われ更迭された、佐藤正三郎の後任として歩兵第1旅団長に就任[5]第1師団隷下部隊として満州に駐屯する[5]1937年(昭和12年)に第14師団司令部附となり[1]、内地に帰還。1938年(昭和13年)に陸軍中将に進級し[4]鎮海湾要塞司令官に就任[1]1939年(昭和14年)3月9日に待命[6]3月20日予備役に編入された[1]

予備役編入後は中華民国新民会中国語版中央訓練所長として北京に赴任[7]1945年(昭和20年)5月5日に召集され、東部軍管区兵務部長に就任[1]。敗戦後の小泉は、阿南惟幾田中静壱の自決に感銘を受け、自決を考えたが[8]8月25日第142師団長に親補され、復員業務に当たる[7]。12月に復員業務は完了し[8]、召集解除となる[8]。外地に出征していた長男の帰りを待ち、復員後の1946年(昭和21年)12月10日に割腹自決した[8]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 福川 2001, 293頁.
  2. ^ a b c d e f g 伊藤 2018, 139頁.
  3. ^ a b 伊藤 2018, 140頁.
  4. ^ a b c d e f g 外山 1981, 231頁.
  5. ^ a b 伊藤 2018, 141頁.
  6. ^ 外山 1981, 232頁.
  7. ^ a b 伊藤 2018, 142頁.
  8. ^ a b c d 伊藤 2018, 143頁.

参考文献

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  • 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738 
  • 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026 
  • 伊藤禎 著『大東亜戦争責任を取って自決した陸軍将官26人列伝』展望社、2018年。ISBN 4885463513