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小槻孝信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
小槻孝信
時代 平安時代後期
生誕 寛仁元年(1017年
死没 応徳3年9月15日1086年10月25日
官位 従四位上主計頭
主君 後冷泉天皇後三条天皇白河天皇
氏族 小槻氏
父母 父:小槻貞行
祐俊
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小槻 孝信(おつき の たかのぶ)は、平安時代後期の貴族左大史小槻貞行の子。官位従四位上主計頭

経歴

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後一条朝末に左少史を務め、後冷泉朝初頭の永承元年(1046年大夫史(五位の左大史)に任ぜられる。左大史には後冷泉・後三条白河の三朝約30年に亘って在任して、この間算博士大炊頭主税頭主計頭などを兼ねる。承保3年(1076年)頃に左大史を子息の祐俊に譲るが、引き続き主計頭兼算博士を帯びたほか紀伊守なども務め、後に位階従四位上に至った。応徳3年(1086年)9月15日卒去享年70。

人物

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太政官のみならず、主計寮の先例にも通じ、『諸国申請雑事』という書物を著したと伝えられている[1]。大夫史に期待されていた宣旨発給手続実務および文書保管と先例勘申に加え、手続を遂行する上で弁官と主計寮の連携が必要とされる一国平均役が広く行われるようになると、孝信および小槻氏が持つ文書および先例の蓄積と地方の租税に関する知識の朝廷における存在感が高まるようになり、孝信以降大夫史は小槻氏の嫡流によって世襲されるようになった(官務の成立)。この書が成立した約100年後の治承3年(1179年)に右大臣九条兼実の指示により小槻有頼が書写しており[1]、この書の有用性が窺われる[2]

また、主計頭としての立揚で主計寮文書を抄出して、公務に役だてようとしたともされる[3]

官歴

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系譜

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系図纂要』による。

脚注

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  1. ^ a b 『玉葉』治承3年6月1日条
  2. ^ 曽我[1983: 25]
  3. ^ 『小槻氏系図』
  4. ^ 『類聚符宣抄』
  5. ^ 『二中歴』
  6. ^ 『東宮冠礼部類記』
  7. ^ 『東大寺文書』「東南院文書」56
  8. ^ 『東大寺文書』「東南院文書」57
  9. ^ 『石清水文書』「田中家文書」407
  10. ^ 『二中歴』二寮頭歴
  11. ^ 『平安遺文』1024
  12. ^ 『勘例』
  13. ^ 『東大寺文書』「東南院文書」662
  14. ^ 『九条家文書』330
  15. ^ 『平安遺文』1132
  16. ^ 『水左記』
  17. ^ a b 『系図纂要』

参考文献

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  • 橋本義彦「小槻孝信」『平安時代史事典』角川書店1994年 ISBN 978-4-040-31700-7
  • 曽我良成「官務家成立の歴史的背景」『史学雑誌』第92巻第3号、史学会、1983年、279-317,413-41、doi:10.24471/shigaku.92.3_279ISSN 0018-2478NAID 110002364879 /所収:曽我良成『王朝国家政務の研究』吉川弘文館、2012年。ISBN 9784642024976NCID BB09523086https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I023728662-00 
  • 永井晋『官史補任』続群書類従完成会、1998年
  • 宮崎康充編『国司補任 第四,第五』続群書類従完成会、1990年