寧古塔

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寧古塔ニングタ、ねいことう、満洲語ᠨᡞᠨᠩᡤᡠᠳᠠ、転写:ningguta[1])は代から1930年代初頭にかけて、満洲東部の牡丹江中流域にあった地名であり、清が満洲を統治するにあたり重要な役割を果たした場所であった。現在の黒竜江省牡丹江市寧安市に相当する。

清代の寧古塔[編集]

寧古塔は清朝を打ち立てた愛新覚羅氏の発祥の地であった。満洲語では「6個ずつ」のことをningguta(ニングタ)といい、太祖ヌルハチの曾祖父・フマン(福満)から生まれた6人兄弟がこの地にいたことに由来する地名といわれる。ningguta beise(寧古塔貝子、六人の王)という地名が縮まって寧古塔となった。

寧古塔には旧城と新城がある。最初の寧古塔(旧城)は現在の牡丹江市海林市長汀鎮の海浪河南岸の盆地にあった。旧城は内城(周囲687m)と外城(周囲2,500m)で囲まれた小規模な都市であり、今もその遺構が残っている。海林周辺は農地としても肥沃であるほか林業・漁業・狩猟の適地でもあり、陸路や水路など交通の要所でもあった。

17世紀半ば、満洲北部にはロシア・ツァーリ国のコサックらが進出し、エロフェイ・ハバロフの探検をはじめとするロシア人の軍事活動や征服活動によって治安が揺らいでいた。1653年順治10年)、アムール川(黒竜江)・ウスリー川沿岸一帯を抑える軍事組織であるアムバン・ジャンギン(amban janggin、昂邦章京)とメイレニ・ジャンギン(meiren i janggin、梅勒章京)が寧古塔城に置かれ、寧古塔は満洲支配のための拠点として強化された。1662年康熙元年)にはアムバン・ジャンギンはニングタイ・ジャンギュン(ningguta i jiyanggiyūn、寧古塔将軍)に、メイレニ・ジャンギンの漢語名は副都統に改められ、寧古塔将軍は1666年(康熙5年)に海浪河より大きな河川である牡丹江に接した新城(現在の牡丹江市寧安市の寧安県城)に移転した。以後は新城が寧古塔と呼ばれることとなる。

1676年には寧古塔将軍は吉林に移駐してしまい、吉林将軍と改称しアムール川河口までを管轄とするようになったが、寧古塔の城はこれ以後も寧古塔副都統が残り、満洲東部の軍事・政治・経済の重要拠点であり続けた。沿岸の狩猟民族らが毛皮などの産品を携えて牡丹江やウスリー、アムールをたどり、寧古塔と交易を行った。遠く蝦夷地北海道樺太千島列島)のアイヌ人も、黒竜江河口の少数民族を介して、寧古塔から来る絹など清の産品と毛皮などを交換する山丹貿易とよばれる貿易活動を行っていた。清代中期、牡丹江下流に建設された三姓(イラン・ハラ、現在のハルビン市依蘭県)の街が毛皮貢納を一手に引き受ける前は寧古塔がこれらの貿易を統括していた。また流刑地としても使われた[2]

近代の寧古塔[編集]

清代末期になると北京条約などによりアムール川以北やウスリー川以東はロシアに割譲され、毛皮貿易など少数民族相手の交易は衰える。また東清鉄道建設に伴いハルビンなどの街が建設されるが、それでも寧古塔は満洲東部の数少ない都市でありロシアなどに対する軍事拠点だった。特に牡丹江沿岸にあたるため水田耕作に適した土地で、19世紀終わりから漢民族や朝鮮人が周辺に移住し稲作や畑作を始めた。

吉林省設置以降は寧安府、次いで寧安県が寧古塔に置かれたが、寧安県設置以後も寧古塔という名は慣用的に使用されていた。辛亥革命以降の混乱期には、寧古塔は中国人の革命運動や朝鮮人の抗日パルチザンなどさまざまな勢力の拠点となった。1930年代に日本が満洲国をこの地に建国してからしばらくの間も寧古塔は農林業の集散地として栄えていたが、牡丹江市の建設により農林業上・軍事上の拠点としての地位を譲ることとなった。

脚注[編集]

  1. ^ 遼寧省档案館『満洲実録・巻三』
  2. ^ 鄭芝龍をこの地に流罪することが議論された。この地に流罪された上に処刑されたとの説もあるが(周婉窈中国語版『海洋之子鄭成功』407頁)、岡本さえの論文で、その説は否定されている(岡本さえ、「佟国器と清初の江南」、東洋文化研究所紀要、第百六冊、1998年3月。 doi:10.15083/00027200)。