奥平昌敦

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奥平昌敦
奥平昌敦像(自性寺蔵)
時代 江戸時代中期
生誕 享保9年4月12日1724年5月4日
死没 宝暦8年9月26日1758年10月27日
改名 熊太郎(幼名)、昌敦
戒名 方広院殿雲峰道端大居士
墓所 東京都品川区北品川の東海寺清光院
官位 従五位下丹後守山城守大膳大夫
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重
豊前中津藩
氏族 奥平氏
父母 奥平昌成:松嶺院
兄弟 豊太郎、昌敦昌純、万之丞、松平義峯内藤信興正室、建部長教婚約者、土屋篤直正室、堀田正邦継室ら
正室牧野貞通の娘・菊子
昌鹿池田喜生山野辺義風
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奥平 昌敦(おくだいら まさあつ)は、豊前国中津藩の第2代藩主。中津藩奥平家6代。

生涯[編集]

享保9年(1724年)4月12日、中津藩初代藩主・奥平昌成の次男として中津で生まれる。元文2年(1737年)12月16日に従五位下・丹後守に叙位・任官され、寛保2年(1742年)6月1日に山城守に遷任される。延享3年(1746年)、父の死去により家督を継ぐ。

昌敦は宝暦改革といわれる藩政改革に着手し、倹約や奉行制度の制定、目付や目安箱の設置、宝暦札の発行、運上役所の設置と商業統制、宝暦2年(1752年)の61か条、宝暦4年(1754年)の27か条による農政改革などを行なった。また、幕命で江戸城門番を務め、延享4年(1747年)1月4日には大膳大夫に遷任されている。

宝暦8年(1758年)9月26日に江戸で死去した。享年35。跡を長男の昌鹿が継いだ。

系譜[編集]