天野雄光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
天野 雄光
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 不詳[要出典]
死没 慶長14年11月21日1609年12月17日
改名 景俊、雄光
別名 佐々右衛門、道西(号)
官位 従五位周防守
主君 織田信雄豊臣秀次秀吉徳川家康
北畠具教の娘
雄景雄得村越光
テンプレートを表示

天野 雄光(あまの かつみつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。初名は景俊(かげとし)。

生涯[編集]

当初は織田信雄に2万石余で仕え、伊勢長島城番を務めた。天正12年(1584年小牧・長久手の戦いでは徳川家康軍に加わって案内役となり、羽黒の戦いでは酒井忠次隊に属して羽柴勢と戦った。同年の蟹江城合戦では前哨戦で戦功があった。天正18年(1590年)信雄が改易となると豊臣氏に仕え、文禄元年(1592年)には豊臣秀次麾下として一時的に長島城主に再任されている。慶長5年(1600年関ヶ原の戦いのころからは徳川氏の傘下に入り、戦後は2,000石を与えられた。ところが、慶長12年(1607年)6月24日、織田有楽嫡男の頼長美濃清水藩主の稲葉通重山城御牧藩主の津田高勝らと共に京都祇園に赴いたとき、茶屋四郎次郎もしくは後藤長乗の女房を始めとする富商の婦女7・8人を強引に茶店に引き入れて酒を飲ませる、後藤の従者を木に縛り付け、刀を抜いて斬り捨てると脅す等の乱行を起こしたため、幕命により改易となり、2年後に蟄居先の鎌倉で卒した。

長子雄景小早川氏のち加藤氏会津藩)に仕え、次男雄得は別途幕府より禄を与えられており、そのまま旗本として続いた。

出典[編集]