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堀哲三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
堀 久太郎
明治期の石見(大田市)の政治家
生誕 1863年4月25日文久3年3月8日
日本の旗 日本 安濃郡波根村
(現:島根県大田市波根町)
死没 (1943-07-11) 1943年7月11日(80歳没)
日本の旗 日本 島根県安濃郡波根東村
職業 政治家代書人信用組合理事
政党 自由党
無所属
立憲政友会
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堀 久太郎(ほり きゅうたろう)、1863年4月25日文久3年3月8日) - 1943年昭和18年)7月11日戦前日本思想家政治家実業家

本名は堀 哲三(ほり てつぞう)。石見国安濃郡(現・島根県大田市)出身。

明治から昭和期にかけて石見地方での自由民権運動明治自由党石陽部において小原鉄臣加藤公平、米田和一らと活動を共にしていた政治家。

年譜

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人物

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  • 久太郎は波根村で有数の篤志家であり、地元の美術家芸術家の育成に力を注いだ。また波根東村村長の壷倉岩市氏の記録によると「哲三君は全村民の爲、良きと思ふ事を体現するには如何なる手段も厭わない……」と評されるほど行動力をもつ人物であった。[2]
  • 人を集める演説の師と評され石見以外の地域からも多くの若き弁士が彼のもとに訪ねて来ていたが、彼自身も生涯にわたり思想家の演説集を取り寄せては演説方法を学ぶ勉強家であった。[3]

自由党石陽部偽党撲滅会

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  • 波根八幡宮の偽党撲滅会は、社殿の中央に演台を設け壇上には緋毛布を敷き白地に赤文字で偽党撲滅怪社退治と記した幕を、社殿中は 一面に商燈を点じ聴衆数百人に演説を促がしたものであった。[2]

『第一席には、多久礼造が偽党撹滅去の組合という題にて改進党が偽党であることを弁じ立憲改進党を撲滅するは今日の急務であると演じた。 第二席には加藤菊太郎が外面は菩薩の如く内心は夜叉の如しという題で改進党と三菱会社の不正を攻撃し演じた。 第三席に加藤公平が良薬は金箔を惜らずという題にて同じく立憲改進党を攻撃し、その主意書を党員の行為の相反せる事を論じた。 第四席に堀久太郎(哲三)が我国財政困難の起源という題にて、立憲改進党総理大隈重信の在朝の失政を挙げ、私意で三菱株式会社を保護したことにより国家を衰退させたと演じた。 第五席に小原鉄臣が立憲改進党の組織を論じて偽党たる理由を明らかにし併せて地方同党員の限を醒すという題にて改進党が偽党たるを演説じた。』[1] 

  • 地租条例第六章に依拠した地価百分の一へ白減少を要求する農民運動も組織された[3]
  • 地租軽減、偽党撲滅会はこの時期での自由党中央の方針に合わせたものであったが、自由党石陽部の場合は波根東村を中心にした狭い地域を単位で一般村民に密着した徹底的な党活動が行なわれていた事が特徴であった。その事は従来見られていた自由党中央部の広い地域と不得定多数を対象とし党活動が行われていた事とは相反することで党中央宣伝組織活動とは本質的に異なる新しい姿であった。これは久太郎の方針であった。

関連人物

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出典

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  1. ^ a b c 『山陰新聞』明治十六年七月十四日付
  2. ^ a b c d e 『明治自由党の研究』, p. 139, 上巻
  3. ^ a b 下山三郎「明治17年における自由党の動向と農民騒挺の景況」21頁

参考文献

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  • 長谷川昇「「明治自由党の研究(上,下)」寺崎修」『法学研究』第60巻第9号、慶応義塾大学法学研究会、1987年9月、123-128頁、ISSN 03890538国立国会図書館書誌ID:2859853 

関連文献

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