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名和長憲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
名和長憲
なわ ながのり
生年月日 1864年3月12日
没年月日 (1939-07-20) 1939年7月20日(75歳没)
出身校 陸軍士官学校卒業
前職 陸軍少将
所属政党 公正会
称号 従三位
配偶者 名和賢子
名和温子
名和いく
親族 娘婿・徳川誠(貴族院議員)

在任期間 1917年6月2日 - 1939年7月20日
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名和長憲(大正頃)

名和 長憲(なわ ながのり、1864年3月12日(文久4年2月5日[1])- 1939年昭和14年)7月20日[1])は、日本の陸軍軍人政治家華族。陸軍少将貴族院男爵議員東京府荏原郡大井町長。旧姓・友清、旧名・庫蔵[1]

経歴

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柳河藩士・友清貞治の二男として生まれ、同藩士・名和長恭(のち名和神社宮司男爵)の養子となる[1][2]。養父の死去に伴い、1898年11月14日、家督を相続し男爵を襲爵した[1]

1888年陸軍士官学校(旧10期)を卒業し[2]、同年7月28日、陸軍騎兵少尉に任官[3]。以後、騎兵第4大隊中隊長、東宮武官、陸軍士官学校教官、騎兵実施学校教官などを経て、騎兵第1連隊長に就任し日露戦争に出征[4][5]南山の戦い旅順攻囲戦奉天会戦などに参戦した[4]

その後、近衛騎兵連隊長、東宮御用掛、皇太子殿下武料御教育掛などを務め、1914年5月11日、陸軍少将に昇進と同時に予備役に編入された[3][4]

1917年6月2日、貴族院議員補欠選挙で男爵議員に選出され[6]公正会に属し死去するまで在任[5]。その他、東京府荏原郡大井町長、荏原郡町村長会会長などを務めた[2]

栄典

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位階
勲章

親族

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  • 妻:賢子(ますこ、養父長女)・温子(よしこ、大久保誠知長女)・いく(江口政之助妹)[1]
  • 長男:長臣(男爵)[1]
  • 長女:霽子(徳川誠の妻)[1]
  • 二男:長光広島高等学校教授)[1][2]
  • 二女:隆子(松平文友の妻)[1]
  • 三男:長元
  • 四男:長敏
  • 五男:長朋
  • 六男:長博
  • 七男:長信(養子、堀野家)
  • 弟:田中酉熊(海軍教授)[2]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 『平成新修旧華族家系大成』下巻、284頁。
  2. ^ a b c d e 『人事興信録』第10版 下、ナ3-4頁。
  3. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』84、86頁。
  4. ^ a b c 『日本陸軍将官辞典』543頁。
  5. ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』79頁。
  6. ^ 『官報』第1451号、大正6年6月4日。
  7. ^ 『官報』第558号「叙任及辞令」1914年6月11日。
  8. ^ 『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。

参考文献

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  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 人事興信所編『人事興信録』第10版 下、1934年。
日本の爵位
先代
名和長恭
男爵
名和家第2代
1898年 - 1939年
次代
名和長臣