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吉備泉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
吉備泉
時代 奈良時代 - 平安時代初期
生誕 天平15年(743年
死没 弘仁5年閏7月8日814年8月26日
官位 正四位上参議
主君 称徳天皇光仁天皇桓武天皇平城天皇嵯峨天皇
氏族 吉備氏
父母 父:吉備真備
兄弟 由利(姉)、
、与智麻呂、書足、稲麻呂、真勝
全継、当継、吉足
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吉備 泉(きび の いずみ)は、奈良時代から平安時代初期にかけての公卿右大臣吉備真備の子。官位正四位上参議

経歴

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近衛将監を経て、天平神護2年(766年)に従五位下叙爵し、翌天平神護3年(767年大学員外助を兼ねる。同年従五位上、神護景雲3年(769年正五位下左衛士督、神護景雲4年(770年)7月には従四位下に叙任されるなど、称徳天皇の信頼が篤かった右大臣吉備真備の子息として称徳朝では順調に昇進を重ねた。

神護景雲4年(770年)8月に称徳天皇が崩御してまもなく大学頭に転じるが、光仁朝では叙位に与ることはなく、称徳朝から一転して昇進は停滞する。天応元年12月(782年1月)の光仁天皇崩御に際して山作司を務めた。

桓武朝に入ると、天応2年(782年)に伊予守として地方官に転じる。しかし、下僚と協調できずにしばしば告訴されたため、延暦3年(784年朝廷から詔使が派遣され訊問を受ける。泉は詔使に対してに不敬な対応をした上で、承伏しなかったことからに、官司が法に則って処罰を求める騒ぎとなった。遂には桓武天皇のにより、功臣(吉備真備)の子であることをもって罪は許されるものの、伊予守の官職は解任される。その後さらに譴責を受けて、延暦4年(785年)には佐渡権守左遷された。延暦14年(795年)には父祖の出身地である備中国に移されるが、桓武朝末の延暦24年(805年)に赦免されて帰京するまで、桓武朝では不遇を託った。延暦25年(806年)桓武天皇崩御の際に山作司を務める。

大同元年(806年)に平城天皇即位し、観察使が設置されると、南海道観察使に任ぜられ、さらに准参議右大弁に抜擢されて公卿に列す。大同3年(808年)に38年ぶりの昇叙で従四位上となると、同年11月には正四位下に続けて昇叙されるなど、平城朝では順調に昇進する傍ら、左右大弁・右京大夫刑部卿などを歴任した。

嵯峨朝に入り、大同5年(810年)観察使制度の廃止により参議となる。『公卿補任』では同年9月に発生した薬子の変の最中に左大弁を解任されているとの記載がある。実際には大同4年(809年)6月より秋篠安人が左大弁の官職にあったが、弁官局が分局して平城宮にいた平城上皇に直侍し、泉がその責任者を務めていて、変後にそれを解かれた可能性も指摘されている[1]。のち、刑部卿・左衛門督などを兼帯するが、弘仁3年(812年)に致仕弘仁4年(813年)正四位上に叙せられている。

弘仁5年(814年)閏7月8日卒去。享年72。最終官位散位正四位上。

人物

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学者の家の子として幼い頃より学才があると評判があった。性格はかたくなで短気であり、物事に逆らうことが多かった。大同年間に賢臣の子であることをもって観察使に任ぜられるが、政務を行うにあたり原則を踏まえず処置するなど、強情で心がねじけている様子は、老いても変わることがなかったという[2]

官歴

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六国史』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ 西本[2007: 82]
  2. ^ 『日本後紀』弘仁5年閏7月8日条
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m 公卿補任
  4. ^ a b c 鈴木真年『諸系譜』第13冊,吉備氏

参考文献

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  • 宇治谷孟『続日本紀 (中)』講談社講談社学術文庫〉、1992年
  • 宇治谷孟『続日本紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、1995年
  • 森田悌『日本後紀 (上)』講談社〈講談社学術文庫〉、2006年
  • 森田悌『日本後紀 (中)』講談社〈講談社学術文庫〉、2006年
  • 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年
  • 西本昌弘「薬子の変とその背景」『国立歴史民俗博物館研究報告 134』国立歴史民俗博物館、2007年