内藤信広
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 文禄元年(1592年) |
死没 | 慶安2年3月15日(1649年4月26日) |
別名 | 三弥 |
官位 | 主税助、従五位下、市正、石見守 |
幕府 | 江戸幕府 大坂定番1万5,000石→8,000石 |
氏族 | 内藤家 (信成系) |
父母 | 父:内藤信成、母:粟生長勝の娘 |
兄弟 | 信正、信広 |
妻 | 正室:三宅康信の娘 |
子 |
信光、松平乗真、信雪(三男)、信直、 信通(五男)、娘(駒井親昌室) |
内藤 信広(ないとう のぶひろ)は、江戸時代初期の旗本。一時は大名だった。越後国村上藩内藤家の分家初代。内藤信成の次男。
生涯
[編集]慶長16年(1611年)6月、徳川秀忠に召抱えられて小姓となる。同19年(1614年)御徒頭となり、大坂冬の陣に供奉、元和元年(1615年)上野国に采地1,000石を与えられる。同年5月7日、大坂夏の陣において戦功があり、のち小姓組組頭となる。
元和3年(1617年)1月14日、従五位下市正に叙任、のち寛永3年(1626年)書院組頭となる。同9年(1632年)4月8日大番頭に進み、また石見守に改めた。
寛永10年(1633年)、安房国および上総国において加増4000石を受ける。慶安元年(1648年)6月26日には大坂定番となり、また加増されて都合1万5000石を領した。しかし家臣の一人がキリシタンとして処刑されると、その責を問われて罷免され、7000石を減封された。
慶安2年(1649年)3月15日、江戸において死去した。享年58。法名は浄閑。家督を長男の信光が継いだ。
葬地は神田無量院とされ、のちこの寺が駒込に移転したという(「寛政譜」新訂13巻206頁)。
参考文献
[編集]- 『新訂寛政重修諸家譜』13巻 続群書類従完成会、1984年 同書205、206頁
- 浜垣容二 「キリシタンの配下に連座」、『大名廃絶読本』、読本シリーズ (新人物往来社)第3号216-217頁、1991年。