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何豊林

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
何豊林
Who's Who in China 3rd ed. (1925)
プロフィール
出生: 1873年同治12年) 
死去: 不詳
出身地: 清の旗 山東省済南府平陰県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 何豐林
簡体字 何丰林
拼音 Hé Fènglín
ラテン字 Ho Feng-lin
和名表記: か ほうりん
発音転記: ホー フォンリン
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何 豊林(か ほうりん)は、清末中華民国の軍人。茂如北京政府では安徽派奉天派に属した。中華民国臨時政府にも参与している。

事績

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北洋武備学堂卒業後、新建陸軍に加入し、清末には第4鎮第8協第15標標統まで昇進した。1912年民国元年)5月、第4鎮第8協協統に昇進する[1][2]。翌1913年(民国2年)9月14日、陸軍中将銜を授与された。同年11月29日に第4師第7旅旅長に任命され、翌月19日には同師第8旅旅長に移る。袁世凱が皇帝に即位した際には、1915年(民国4年)12月23日に三等男として特封され、翌1916年(民国5年)4月24日、陸軍中将位を授与された[3]

袁世凱死後、何豊林は安徽派盧永祥配下となる[1][2]1917年(民国6年)12月30日 、浙江省甯台鎮守使に任命された。1920年(民国9年)6月23日、陸軍第6混成旅旅長に任命され、7月2日に松滬鎮守使を兼任した(12月3日、松滬護軍使となる)。1922年(民国11年)1月25日、陸軍上将銜を授与されている[3]1924年(民国13年)、江浙戦争では浙滬聯軍第1軍司令として戦ったが、盧の敗北と共に下野し、大連に逃れた[1][2]

その後、何豊林は奉天派に加わる。張作霖が大元帥となると、1927年(民国16年)6月20日に何は軍事総長に特任され[3]、さらに安国軍模範軍団総司令に任じられた。なお1927年(民国16年)4月には、軍事特別法廷裁判長として李大釗絞首刑を宣告している。北京政府が崩壊した後には、何も辞任して東北に逃れた。

1931年(民国20年)、張学良の下で東北辺防軍司令長官公署首席参議に任じられている[1][2]1936年(民国25年)12月12日、国民政府から陸軍中将に任命された[3]

北京で中華民国臨時政府が成立すると、何豊林もこれに参与し、陸軍上将の位を授与された。1938年(民国27年)1月8日、臨時政府侍衛長に特派された[4][5]

以後、何豊林の行方は不詳である。

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  1. ^ a b c d 徐主編(2007)、682頁。
  2. ^ a b c d 来ほか(2000)、1133頁。
  3. ^ a b c d 中華民国政府官職資料庫「姓名:何豐林」
  4. ^ 臨時政府令、民国27年1月8日(『政府公報』第1号、臨時政府行政委員会公報処、民国27年1月17日、19頁)。
  5. ^ 山東省情網によると「1935年(民国24年)、死去。翌年、陸軍中将銜を追贈された。」とあるが、誤り。徐主編(2007)、682頁と来ほか(2000)、1133頁によると、何豊林は1938年(民国27年)に華北政務委員会武官長の地位に就いたとされる。しかし、この当時に華北政務委員会は存在していないため(汪兆銘政権の機関であり、1940年3月に成立)、この記述も誤りである。

参考文献

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  • 「平陰鎮」-「人物簡介」山東省情網(山東省地方史志弁公室ホームページ)
  • 来新夏ほか『北洋軍閥史』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
張景恵(陸軍総長)
杜錫珪(海軍総長)
軍事総長
1927年6月 - 1928年6月
次代
(廃止)