二条為雄
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時代 | 鎌倉時代後期 |
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生誕 | 建長7年(1255年) |
死没 | 不詳[1] |
改名 | 為雄 → 覚心(法名) |
官位 | 参議、従二位、右衛門督 |
主君 | 後深草天皇 → 亀山天皇 → 後宇多天皇 → 伏見天皇 → 後伏見天皇 → 後二条天皇 |
氏族 | 藤原北家長家流御子左家 |
父母 | 父:二条為氏、母:不詳 |
兄弟 | 為世、為雄、為実、為言 |
妻 | 不詳 |
二条 為雄(にじょう ためお)は、鎌倉時代後期の公卿。参議、従二位、右衛門督。歌道家である二条家(二条派)嫡流に生まれる。権大納言二条為氏の二男。当初、兄為世の二男為藤を猶子としていたが、為世の嫡男為道が早世したため、為藤は嫡家を継いだ。
経歴
[編集]以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 正嘉3年(1259年)1月6日、叙爵。
- 文応(1260年)2年1月20日、侍従に任ぜられる。
- 文永3年(1266年)4月3日、従五位上に昇叙。
- 文永6年(1269年)3月27日、越前介を兼ねる。
- 文永7年(1270年)閏9月4日、左少将に任ぜられる。
- 文永8年(1271年)1月5日、正五位下に昇叙。
- 文永11年(1274年)2月20日、信濃介を兼ねる。同年3月20日、従四位下に昇叙。
- 文永12年(1275年)4月13日、左少将に還任。
- 建治2年(1276年)12月20日、従四位上に昇叙。
- 弘安元年(1278年)7月17日、左中将に転任。
- 弘安3年(1280年)1月5日、正四位下に昇叙。
- 弘安9年(1286年)閏12月8日、父為氏の喪に服していたが復任。
- 正応2年(1289年)1月13日、加賀権介を兼ねる。
- 正応5年(1292年)6月30日、母の喪に服していたが復任。同年12月30日、内蔵頭に任ぜられる。
- 正応6年(1293年)3月14日、右兵衛督に任ぜられる。
- 永仁2年(1294年)3月27日、右中将に転じ、蔵人頭に補される。同年4月7日、禁色を許される。
- 永仁3年(1295年)6月23日、従三位に叙せられ右衛門督に任ぜられる。
- 永仁4年(1296年)4月13日、正三位に昇叙。
- 永仁6年(1298年)9月22日、右衛門督を止める。
- 正安2年(1300年)11月2日、参議に任ぜられる[2]。しかし、年内に参議を辞した[3]。
- 嘉元2年(1304年)3月22日、従二位に昇叙。
- 嘉元3年(1305年)9月17日、出家[4]。法名は覚心。この時51。
亀山法皇の葬儀に参列
[編集]嘉元3年(1305年)9月17日、亀山法皇の葬儀に為雄が参列している様子が『増鏡』に記述されている[5]。