中条長秀
表示
時代 | 南北朝時代 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 至徳元年(1384年)? |
別名 |
通称:左衛門尉、兵庫助、兵庫頭 号:法印海尋 |
墓所 | 弘済寺(現存しない) |
官位 | 従五位下・出羽守 |
幕府 | 室町幕府 評定衆 |
主君 | 足利義満 |
氏族 | 中条氏 |
父母 | 父:中条景長 |
兄弟 | 時長、長秀 |
子 | 秀孝 |
中条 長秀(ちゅうじょう ながひで)は南北朝時代の人。三河挙母城主。剣術流派・中条流平法の創始者であり、室町幕府で伊賀守護職、恩賞方、寺社造営奉行、評定衆などを歴任した[1]。足利義満の剣術指南役を務めた剣豪としても知られる[1]。
生涯
[編集]足利尊氏に従って鎌倉幕府を滅ぼし、武功を立てた中条景長の次男。
建武元年(1334年)に兄の時長が奥州に所領を得て移住したため、文和3年(1354年)に父の跡を継いで挙母城主となった[2]。
念流開祖の念阿弥慈恩の門に入り、慈恩の高弟である「念流十四哲」の一人となる。 その後、家伝の武術を体系化して中条流平法を創始したと伝えられている[3]。
中条流では、
平法とは平の字たひらか又はひとしと読んで夢想剣に通ずる也。此の心何といふなれば平らかに一生事なきを以って第一とする也。戦を好むは道にあらず。止事(やむこと)を得ず時の太刀の手たるべき也。この教えを知らずして此手(このて)にほこらば命を捨る本たるべし—『中条流平法口決』
として、兵法と言わずに平法と呼ぶ。
歌人、頓阿の高弟としても知られており、長秀の歌は新千載和歌集、新拾遺和歌集、新後拾遺和歌集などの勅撰和歌集に撰ばれている[4]。
逸話
[編集]中条流流祖として知られているが、武芸者らしい逸話は伝わっていない。室町幕府の評定衆などをつとめ、また、歌人として生涯を過ごした。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 草野巧『剣豪 剣一筋に生きたアウトローたち』新紀元社、1999年、11-12頁。ISBN 4-88317-325-9。
- 小島英煕『素顔の剣豪たち』日本経済新聞、1998年、152頁。ISBN 4-532-16285-8。
- 中井一水『日本伝承武芸流派読本』新人物往来社、1994年、58-60頁。
- 歴史群像編集部編『日本剣豪100人伝』学習研究所、1999年、20-21頁。ISBN 978-4-05-403733-5。
- 綿谷雪『図説・古武道史』青蛙房、2013年、80-82頁。ISBN 978-4-7905-0124-4。
- 渡辺誠『歴史読本 特集 秘伝!武芸流祖録 1993年11月号』新人物往来社、1993年、152頁。