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与賀城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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与賀城
佐賀県
別名 與賀城
城郭構造 平城
築城主 不明
築城年 文明14年(1482年
主な城主 少弐
廃城年 永禄6年(1563年
遺構 楼門(伝:城門のみ)
指定文化財 楼門(国重要文化財)
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与賀城(よかじょう)は、佐賀県佐賀市与賀町にあった日本の城

概要

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与賀城は、少弐教頼少弐政資が居住した城である。

与賀城は現存せず、与賀城の城門と伝承されている門が与賀神社(與賀神社)の楼門[1][2](国重要文化財)として残っている。与賀神社には、少弐神社と呼ばれる神社を城の鎮守として修復するなど多大な貢献をした少弐政資を祭る神社がある。

沿革

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初代武藤資頼の頃から与賀荘の地頭職を代々受け継いでいて、少弐家本領[3]であった可能性が高い。 建長3年(1251年[4]、 与賀城があった肥前国佐賀郡与賀神社に、少弐資能が洪鐘を奉納した記録が残っている。(鐘[5]は第二次大戦の金属供出で現存せず。)

教頼が、大内氏に敗れて龍造寺氏をたよって、佐賀県佐賀市与賀に逃れた際に与賀荘に居館を築いたことから始まる。その後、政資が文明14年(1482年)[6]に父の教頼の居館跡に築城したのが与賀城である。 与賀城付近には、佐賀平野特有の江湖[えご][7] と呼ばれる河川があった。 少弐政資は、[8]小津江(多布施川下流)、佐賀江[9]、本庄江など江湖[えご]付近の港を利用して、舟運で利益を上げていた。 永禄6年(1563年)に、龍造寺隆信が与賀城に龍造寺一族の菩提寺である龍泰寺[10]を建立したことで廃城となった。

脚注

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  1. ^ 渡辺文吉『武藤少弐興亡史』 海鳥社、1989年、p.184に記述あり。
  2. ^ 佐賀県教育委員会『佐賀県の中近世城館 第2集 各説編 1 (三養基・神埼・佐賀地区) 』佐賀県教育委員会、2013年3月、p.31に記述あり。
  3. ^ 渡辺文吉『武藤少弐興亡史』 海鳥社、1989年、p.187の記述。少弐氏と与賀荘の関係は、地頭職補任は初代資頼に遡るかも知れない。少弐氏本宗、庶流の重代伝領の資料を散見しうる。(出典:川添昭二『九州中世史の研究』)
  4. ^ 渡辺文吉『武藤少弐興亡史』 海鳥社、1989年、p.185~186に鐘の銘の記録があり。 
    銘曰 「肥前国与賀郷荘鎮守宮洪鐘壱口…(中略)…地頭豊前々司藤原朝臣資能…(中略)…建長三年歳時辛亥八月八日丙申 治鋳之」 
  5. ^ 渡辺文吉『武藤少弐興亡史』 海鳥社、1989年、p.186の記述。
  6. ^ 渡辺文吉『武藤少弐興亡史』 海鳥社、1989年、p.184の記述。
  7. ^ (一社)農業農村整備情報総合センター『肥前佐賀の水土の知 第三章得意な水土2』2020年4月26日確認
  8. ^ 渡辺文吉『武藤少弐興亡史』 海鳥社、1989年 p.188 記述
  9. ^ 『さがの歴史・文化お宝帳』佐賀江
  10. ^ 『さがの歴史・文化お宝帳』龍泰寺

参考資料

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  • 渡辺文吉『武藤少弐興亡史』 海鳥社、1989年
  • 佐賀市教育委員会・文化振興課・文化振興係『さがの歴史・文化お宝帳』[1]2020年4月26日確認

関連項目

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