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上田宗箇流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Ueda Sôko Ryû 2008

上田宗箇流(うえだそうこりゅう)は、茶道流派の一つで、芸州浅野家の家老であった上田家に伝わる武家茶道の一流。上田流とも。家元は広島市西区にあり、庵号は和風堂、財団法人として上田流和風堂、同門組織として和風会がある。遠鐘クラブという後援組織もあり、広島各地の他、東京・関西・ハノーバー(ドイツ)などに稽古場がある。

歴史

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初代上田宗箇(上田重安)は、はじめ丹羽長秀、のちに秀吉の配下となり、武勇で知られる武将である。茶道ははじめは千利休、ついで古田織部の門下であった。武人としてあまりに高名であるために、茶人としての逸話はあまり伝えられていないが、徳島城名古屋城などの作庭や、茶杓茶碗など手作りの茶器に逸品が多く文武両芸に秀でた人であったと考えられる。大坂夏の陣で一時竹藪に隠れていた折りに、美竹を見つけて茶杓を削りはじめ、あまりに無心に削っているため敵兵がかえって怪しんで逃げたという逸話があり、「敵がくれ」はこの時の茶杓と伝えられている。元和5年(1619年)浅野長晟に従って広島藩に移って以来、広島の地で維新や被爆を経て現在に至る。

特徴

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左利きであったため、帛紗を左につけていたとされる千宗旦の影響を受けず、武家茶道の常として帛紗を右につける。また、柄杓の扱いなどに直線的な所作を特徴とする。上田宗箇流には男性と女性で点前の区別がはっきりしており、女性点前の方が(表千家の婦人点前とは異なり)三千家の基本の所作に近い。例えば柄杓・蓋置・建水の運び出しは、女性は全てを建水に仕組むが、男性は建水に蓋置を仕込んだ上で柄杓は「乗馬柄杓」と称して右手に持つ。茶巾のたたみ方も、女性は縦三つ横四つに捌くのに対して、男性は斜め(裏千家でいうところの「千鳥茶巾」)に捌く。茶人の正月とも言われる「炉開き」には、お汁粉がふるまわれるのが慣例となっている。また、利休と同時期の創流であることから、利休より織部が重要視される。

歴代

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安芸上田家歴代
生没年 備考
上田重安(上田宗箇) 竹隠 1563年-
1650年5月1日
上田重政 備前 1607年-
1650年4月10日
上田重安の二男
上田重次 主水助 1638年-
1689年6月5日
上田重羽 主水 1662年-
1724年4月8日
上田義行 主水 1694年11月-
1725年12月14日
浅野綱長の子
上田義従 主水 1715年2月13日-
1736年10月14日
上田重羽の子
上田義敷 主水 1702年3月3日-
1743年7月2日
浅野綱長の子
上田義珍 民部 -
1755年8月19日
旗本上田能登守の子
上田安虎 主水 -
1802年5月25日
浅野長賢の子
上田安世 主水 1777年9月26日-
1820年11月4日
中根可厚の子
十一 上田安節 主水 1807年11月18日-
1856年7月1日
浅野倫恭の子
十二 上田安敦 山水軒 1820年5月21日-
1888年12月26日
10代上田安世の子
十三 上田安靖
1849年11月24日-
1907年2月15日
亀次郎とも 男爵
十四 上田宗雄 宗翁 1883年5月9日-
1961年11月18日
十五 上田元重 宗源 1912年10月10日-
1994年6月12日
十六 上田潤二 宗冏
1945年6月20日-
-
受戒前は宗嗣と称した
当代

大名家における茶道の常として上田家においても家元自ら門下を指導することはなく、野村家と中村家より茶道預師範として禄100石を与えて茶道の役を務めさせた。しかし戦後1955年に17代預師範加計静堂の没するを以て預師範制度を廃止し、以後は家元が直接指導している。

茶道預師範歴代
野村休夢
中村知元
野村円斎
中村元賀
野村祖休
中村泰休
野村旦心
野村休夢
中村篤美
野村祖休
十一 中村元賀
十二 野村余休
十三 中村泰心
十四 野村円斎
十五 中村快堂
十六 向井竹蝸堂
十七 加計静堂

主な門人

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弘中惇一郎-小沢一郎の顧問弁護士。

参考文献

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  • 上田宗源「上田宗箇流」『日本の茶家』河原書店
  • 宮帯出版社編集部「茶道家元系譜」『茶湯手帳』宮帯出版社

関連項目

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外部リンク

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