織部流

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織部流(おりべりゅう)は、茶道流派の一つ。古田織部(重然)に始まる武家茶道の一派である。

現在の織部流は、「織部流古織会」、「式正(しきせい)織部流(織部桔梗会)」、「織部流扶桑派」、「古田織部流(温知会)」、「織部流毛利派(故新会)」がある。「式正織部流」・「織部流扶桑派」・「織部流古織会」<式正(しきせい)茶法>と、古法の「織部流古織会」草庵(侘)茶法と同奥伝<式正(しきしょう)茶法>・「古田織部流(温知会)」・「織部流毛利派」の点前とでは、大きな違いが見られる。

織部とは、古田織部の「織部助(正)」という官途名からである。織部流は安土桃山時代末期から江戸時代前期に大流行した。織部は豊臣秀吉御咄衆、そして初期の江戸幕府の茶の湯を司り、2代将軍徳川秀忠(1579年―1632年)に至っては茶の湯指南役として直接指導した。「柳営茶道」の元祖である。織部は大坂夏の陣の時、豊臣方に内通したとされ切腹。古田家は御家断絶となったが、秀忠は織部の茶の湯を愛したため幕閣をはじめとする諸大名、公家、僧侶たちもそれに倣い、織部流は秀忠が亡くなるまで柳営茶道の中心であった。その後も織部流は諸藩で用いられ、遠州流宗和流石州流宗旦流などが台頭するまで全盛であった。

江戸幕府のほか、特に加賀藩仙台藩尾張藩熊本藩薩摩藩長州藩徳島藩広島藩福井藩秋田藩盛岡藩久留米藩飛騨高山藩岩国藩などで用いられ、福岡藩、長門長府藩に至っては江戸時代後期まで続いている。

江戸時代中期に福岡藩の大番頭・槙宗空(直村)が豊後岡藩にいた古田織部血縁の古田淵黙に織部流茶法を伝授し、淵黙の子孫・古田宗関(重名)は明治維新の時に上京して、これまで「古織流」と称されていたものを「織部流」と改名し織部流茶道を一般に広く公開した。宗関の弟子には、娘の古田素春(咲)、岡崎淵冲(惟素)、原宗改(鉄石)らがいた。

明治31年(1898年)に宗関は「茶道温知会」を創設し衰退する茶道の普及を志すも大正2年(1913年)に没し、娘の素春(咲・十五代)が大正6年(1917年)、孫の辰雄が大正8年(1919年)と続けて亡くなり、「茶道温知会」は消滅した。

原宗改(鉄石)は古田宗閑(重名)の次男で川久保家に養子に出ていた川久保宗健に織部流十六代家元の相続を求めたが辞退した。そのかわり川久保宗健は古田織部・妻仙および豊後古田家の菩提寺、臨済宗興聖寺派管長で本山京都堀川圓通山興聖寺住職 日種譲山(胎雲)に織部流を託した。

弟子の岡崎淵冲は「織部流淵冲派」、原宗改は「正式織部本流」を称して弟子に教授した。宗改は侘茶を嫌い(真行草のうちの)真の茶道を専らとした。昭和時代初期に至り宗改の弟子・秋元瑞阿弥が千葉で「式正織部流」という、すべて「茶碗台」を用いる茶道を創流し「織部流十六世」を称した(『流祖古田織部正と其茶道』)。また、昭和30年(1955年)に独自の研究と研鑽を積んだ見中斎米山(中村米三郎)が「織部流扶桑派(扶桑織部)」を西陣興聖寺住職・日種譲山と清水寺中興大西良慶のもとで創流。以後清水寺が扶桑派の後ろ盾となる。米山は譲山とともに織部木像を据え、下り蹲踞を作るなど、興聖寺を織部ゆかりの寺にさせた人物である(『見中斎米山』)。

瑞阿弥の弟子には娘の秋元瑞雲(清子)、西陣興聖寺住職・浅野牧仙(王雲斎)がいた(浅野牧仙「織部流」『日本の茶家』400頁)。瑞雲は織部桔梗会会長として娘の瑞燕(成子)に「式正織部流」を継承する。牧仙は「織部流十七世」を継承し、織部流の更なる発展のために織部流を新たに「織部流古織会」と名称し織部流茶道の点前の統一と共に全国に織部流の普及を図った。現在は同寺管長・長門玄晃(槐安)が「織部流十八世継承している。

平成時代になって淵冲派の所作を基にし、桃山時代から江戸時代前期の茶書に記されている古田織部在世期の所作・手順の復元をした「古田織部流(温知会)」が古田織部美術館館長・宮下玄覇によって発足された。そして令和時代には、「織部流古織会」の点前の統一よって消滅していた織部門下・毛利秀元由来の「織部流毛利派(故新会)」が同人により復興された。

特徴[編集]

古田織部は、師の千利休没後、茶の湯を25年にわたって発展させた。将軍・大名・公家などの茶法を制定し、また現在の茶事の形式も確立させている。本来の織部流では、織部好みの竹筒のような茶入、ゆがんだ沓茶碗などを使用するが、その点前は茶会記のほか茶書「宗湛日記」「織部百ヶ条」「茶道長問織答抄」「古織伝」「数寄道次第」「草人木」「古田織部正殿聞書」「茶譜」などに詳しく記され、その一部は遠州流藪内流上田宗箇流宗和流南坊流土屋宗俊系で福岡藩に伝わる)にも受け継がれている。一方、秋元瑞阿弥創案の「式正織部流」は真の点前(式正茶法)を標榜するため茶碗は必ず天目である。茶碗は原則、天目のみしか使用できず[1]、「へうけもの」(ひょうげ物)といわれた織部茶碗は、淵冲系の「織部流古織会」草庵(侘)茶法・「古田織部流(温知会)」・「織部流毛利派」でしか使用していない。「式正織部流」・「織部流扶桑派」・「織部流古織会」<式正(しきせい)茶法>では、天目台を用いず「茶碗台」という珍しい台を茶碗の台として用いる。瑞阿弥系(式正織部流、扶桑派、織部流古織会式正茶法)とは別に淵冲系の「式正(しきしょう)」(真)点前があるが、全く別種のものであり、似ている部分がない。式正織部流の点前は、織部流扶桑派、織部流古織会式正(しきせい)茶法、御家流(安藤家)で用いられている。「織部流古織会」は「織部伝両伝茶儀法」とし、瑞阿弥考案の「式正(しきせい)茶式法」(書院や広間座敷で茶碗台を使用する点前法)と、「草庵(侘)茶法」(利休の露地草庵数寄屋茶法を武家の様式に改めた茶法)、奥伝「式正(しきしょう)茶法」(式正数寄御成、将軍など貴人の前で点茶を行う茶法)と称して教授している。古田織部流(温知会)の点前は、江戸時代前期以前の織部の茶会記・茶書を研究し、当時の手順を忠実に復元・修正したものである。「織部流毛利派」の点前は、茶杓の清め方や茶筌通しなどが淵冲系・瑞阿弥系とは一切異なる。

歴史[編集]

古田織部の茶の湯を伝えた弟子には、土屋宗俊(織部流)、小堀遠州(遠州流)、佐久間将監(宗可流)、上田宗箇(上田宗箇流)、金森宗和(宗和流)、安楽庵策伝(安楽庵流)、本阿弥光悦などがいた。また諸には織部流の茶堂(頭)が数多くいた。江戸時代中期に古田淵黙(中川広計)という豊後岡藩老職がおり、これは織部の女婿・古田重続(中川秀政老職)の子孫であった。淵黙は、初め江戸千家の茶を学んでいたが、天明8年(1788年)に家臣・古田正友(代助)を派遣し、福岡藩の織部流を伝えた槙宗空(玄蕃)より茶法を学ばせ自らがそれを修得、織部流「十一世」を称した。淵黙は、長府藩の同流の茶堂・飯田淵恕(茂的)からも茶法を授けられた。淵黙の茶法は曾孫の古田宗関(重名)にいたるまで伝えられた。宗関は、明治の初めに大分(豊後)から東京へ移り、織部流を一般に教授し、明治31年に「茶道温知会」を設立した。門下には娘の古田素春(咲)、三菱商会岡崎淵冲(惟素)、原宗改(鉄石)などがいた。素春は、宗関が亡くなってから4年後に没し、孫の辰雄もその2年後の大正8年(1919年)に没したため直系は断絶、温知会は消滅した。

高弟の淵冲は、松浦心月庵安田松翁石黒况翁ら在京の華族・知名士等16名からなる輪番茶事グループ「和敬会」(後に益田鈍翁高橋箒庵らが参加)の会員で、諸流の茶道の点前を研究し、『点茶活法』という大著があり、弟子に織部流を教授した。また、原宗改は織部の(真行草のうちの)真の点前を考案し「正式織部本流」を立ち上げた。宗改の弟子・秋元瑞阿弥(清橘)はこの点前をさらに改良して「式正織部流」(織部桔梗会)を創流した(『流祖古田織部正と其茶道』)。瑞阿弥は、その茶道を京都の古田家菩提寺・西陣興聖寺の住職・浅野牧仙(王雲斎)に伝えた(浅野牧仙「織部流」『日本の茶家』400頁)。現在「織部流古織会」では「式正(しきせい)茶式法」が専らである。「式正織部流」は秋元家を織部桔梗会会長として、千葉県市川市を中心に受け継がれている。また、政治力があった秋元瑞阿弥は県の教育委員会に働きかけ、昭和30年(1955年)に「式正織部流」を千葉県無形文化財の第1号に指定させた。一方、牧仙は瑞阿弥考案の「式正(しきせい)茶式法」(書院や広間座敷で茶碗台を使用する点前法)を常としたが、そのほかに「草庵(侘)茶法」(利休の露地草庵数寄屋茶法を武家の様式に改めた茶法)を加えて両伝とした。次代の長門玄晃(槐安)の時代に奥伝として「式正(真)茶法」(式正数寄御成、将軍など貴人の前で点茶を行う茶法)をさらに加えて「織部伝両伝茶儀法」とした。

牧仙の先代の日種譲山の時代、元志野流茶道家元の今岡志満がいた。志満は、田中伊三次(政治家)や北尾春道(茶室研究家)に茶道を教えた。昭和31年(1956年)に見中斎米山(中村米三郎)が「織部流扶桑派」を京都で創流。中村家は2代で途絶えるが、現在も尾﨑家が継承している。

平成時代になって淵冲派の所作を基にし、桃山時代から江戸時代前期の茶書に記されている古田織部在世期の所作・手順の復元をした「古田織部流(温知会)」が古田織部美術館館長・宮下玄覇によって発足、100年ぶりに「温知会」が復会した。京都鷹峯・太閤山荘を本部として京都・東京・名古屋・兵庫を中心に教授している。

織部流はほかに美濃久々里(現岐阜県可児市)の旗本千村氏に仕え飯田役所の重役だった市岡家が幕末に行っていたが消滅した。長門長府藩茶堂・飯田家より北九州小倉(現北九州市若松区)の石橋宗清(児玉宗久の孫弟子)に伝わった織部流があり、興聖寺による流儀統一のため消滅した。その点前を録画していた宮下玄覇がそれを惜しみ令和時代に復興させ、織部門下・毛利秀元由来の「織部流毛利派(故新会)」となった。

織部流門人[編集]

安土桃山時代から江戸時代初期[編集]

江戸時代[編集]

織部流歴代(黒田藩系)
通称 庵号 道号 生没年 ※ 身分
古田重然 左介・織部助 印斎 玄庵 金甫 宗屋 1543年 - 1615年 東大和・南山城国 大名(1万石)
2 土屋 金左衛門 宗俊     - 1671年 久留米藩(400石)・福岡藩(200石)士
3 石原 宗林 (延宝) 福岡藩 御茶道(20石6人)
4 槙重賢 長左衛門 玉壺斎 艮山 (宝永・享保) 福岡藩 御家門(1200石)
5 百野 湖月 (元文) 福岡藩 御茶道(20石6人)
6 百野林甫 宗湖 (延享) 福岡藩 御納戸組 御茶道(20石6人)
7 槙直村 玄蕃 釣寂軒 了山 宗空 (天明・文化) 福岡藩 御家門 大番頭(1400石)
8 古田広計 壱岐・中務 不染斎 温故堂 淵黙 宗深 1757年 - 1832年 岡藩 老職(1000石)
9 古田重功 勘解由 玄室 宗経 1780年 - 1836年 岡藩 小姓番頭(400石)
10 古田重剛 右馬允 家山 1808年 - 1887年 岡藩 近習物頭(400石)
11 古田重名 小膳 印斎 燕雨庵 雲山 宗関 1839年 - 1913年 (元服前)岡藩 御小姓(400石)
12 岡崎惟素 谷神庵 淵冲 了徹 1840年 - 1905年 三菱商会 本社副支配人
小林五郎吉 楽只庵 淵穆 (明治・大正)
佐藤とみ 節楽庵 淵静 (大正・昭和)
中田くに 淵邦 (昭和)

※ ( )は活動期。

参考文献[編集]

  • 佐藤淵静『式正茶法』
  • 秋元瑞阿弥『流祖古田織部正と其茶道』(織部桔梗会)
  • 井口海仙・久田宗也・中村昌生編『日本の茶家』(河原書店)
  • 市野千鶴子校訂「織部茶会記」『古田織部茶書二』(思文閣出版)
  • 鈴木さよ『見中斎米山』(私家版)
  • 宮帯出版社編集部「茶道家元系譜」『茶湯手帳』(宮帯出版社)
  • 古田織部四百年遠忌追善茶会実行委員会編 『古田織部四百年忌図録』(宮帯出版社)
  • 古田織部顕彰会・茶道織部流古織会『古田織部四百回忌記念 武将古織と織部茶道の歴史』
  • 宮下玄覇『古田宗関』(宮帯出版社)
  • 宮下玄覇『岡崎淵冲』(宮帯出版社)
  • 廣田吉崇「古織流茶道主客一日草」『茶書研究 第六号』(茶書研究会)
  • 廣田吉崇「古田織部流八十一ヶ条口伝抄」『茶書研究 第九号』(茶書研究会)
  • 織部流茶湯機関紙『金甫』(古田織部流茶湯研究会)

脚注[編集]

  1. ^ 高台部を天目(輪高台)、口を歪ませた沓形茶碗を強引に作り、茶碗台に乗せて使用するのは、瑞阿弥の教えに背くといえる。

外部リンク[編集]