コンテンツにスキップ

ロナルド・サイム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
サー・ロナルド・サイム
Sir Ronald Syme
生誕 (1903-03-11) 1903年3月11日
ニュージーランドの旗 ニュージーランド タラナキエルタム
死没 1989年9月4日(1989-09-04)(86歳没)
イギリスの旗 イギリス オックスフォード
国籍 イギリスの旗 イギリス
研究分野 古代史
研究機関 オックスフォード大学
アンカラ大学
イスタンブール大学
出身校 オークランド大学
ビクトリア大学
オックスフォード大学
主な業績 『ローマ革命』
影響を
受けた人物
エドワード・ギボン
フリードリヒ・ムンツァー英語版
プロジェクト:人物伝
テンプレートを表示

サー・ロナルド・サイムSir Ronald Syme, 1903年3月11日エルタム - 1989年9月4日オックスフォード[1])は、イギリス連邦歴史学者

古代ヨーロッパ史の大家であり、オックスフォード大学の古代史担当教授(キャムデン教授職)、英国アカデミー会員などを務めた。20世紀で最も偉大な古代ローマ史の研究者と評価されている。晩年はアメリカ哲学協会会員[2]

生涯

[編集]

1903年3月11日、英領ニュージーランドノース・アイランドにあるタラナキ州エルタム市に生まれる。後にニュープリマス市に移住し、オークランド大学ビクトリア大学文学フランス語西洋古典学を学んだ[3]1925年から27年にかけてオックスフォード大学のSchool of Literae Humanioresに在学[3]歴史学哲学を専攻してトマス・モアを研究して優等な成績を収めた。オックスフォード在学中、論文に関する学内選考であるゲーズフォード賞を受賞している。

彼の最初の学究的な仕事は1928年に「Journal of Roman Studies」で発表された[4]。1929年、トリニティー・カレッジの研究員となり、ローマ軍の国境防衛策に関する研究で高い名声を獲得した[3]

1939年の秋、『ローマ革命』を出版。 "The Roman constitution was a screen and a sham."という言葉は学会に衝撃を与えた[5]。彼はエドワード・ギボンフリードリヒ・ムンツァー英語版の影響を受けており、プロソポグラフィの達人であったが、ルイス・バーンスタイン・ネイミアに師事していたわけではない[6]

第二次世界大戦の間、ベオグラードで大使館報道官として働きつつ、現地の学者と交流するうちセルビア・クロアチア語を習得した。後にアンカライスタンブール大学で教鞭を執った。イギリス政府の対枢軸国活動に加わっていたのではないかとする説もあるが、憶測の域を出ない[6]

イギリス帰国後の1944年に英国アカデミー会員に選出され、5年後の1949年にオックスフォード大学のブレイズノーズ・カレッジで古代史担当の歴史学教授(キャムデン教授職)に任命され、1970年まで務めた[3]。歴史学者としての功績を評価されて1959年にナイトの爵位を、1976年にメリット勲章をそれぞれ授与された[3]。86歳の長寿を全うするまで、イギリス歴史学会の重鎮として精力的にローマ史の研究を続けた。

晩年は『ローマ皇帝群像』の研究に打ち込み[2]、死の一週間前まで執筆し続け、今後の講演予定を立てていたという[3]。最後はオクスフォードの病院で亡くなった[1]

人物

[編集]

驚異的記憶力で知られ、時には古代ローマ人になりきって語ることがあったという[3]。彼は「自分のスタイルを守る」ことにこだわりを持っており、私生活をあまり語らなかった。非常に勤勉で、音楽を「雑音」と呼ぶなど趣味とは無縁のようだったが、酔うとスウィンバーンの詩を口ずさむことがあった。また、ジョージ・ビアドー・グランディ英語版の口まねをしてみたり、アメリカ哲学協会の仲間に「ベンジャミン・フランクリン・ギャング」とあだ名を付けるような一面もあったという[2]

著書

[編集]

日本でも有名な『ローマ革命』では、共和政ローマ末期の内乱の一世紀を革命と見なす従来の説を更に推し進め、それまで差別的な扱いを受けてきたイタリック人のエリートたちが、同じ地方出身のアウグストゥスを担いでローマノビレス支配体制を覆したとした。それを支えていたのは、同盟市戦争の結果市民権を得、ローマ軍団に組み込まれたイタリア人の無資産階級(プロレタリイ)であり、彼らによる社会革命であったとも主張している[7]

脚注

[編集]
  1. ^ a b NYT.
  2. ^ a b c Bowersock, p. 121.
  3. ^ a b c d e f g Bowersock, p. 119.
  4. ^ "Rhine and Danube Legions under Domitian", Journal of Roman Studies 18 (1928) 41–55; see Anthony Birley, "Editor's Introduction", in The Provincial at Rome (Presses Université Laval, 2000), p. xi online and pp. xi–xx on Syme's publications and scholarly career.
  5. ^ Bowersock, pp. 119–120.
  6. ^ a b Bowersock, p. 120.
  7. ^ 砂田(2010), pp. 59–60.

参考資料

[編集]

外部リンク

[編集]
学職
先代
ヒューゲ・ラスト
第21代キャムデン教授職
1949-1970
次代
ペーター・ブルント