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マリア (ルーマニア王妃)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マリア
Maria
ルーマニア王妃
ルーマニア王妃マリア
在位 1914年10月10日 - 1927年7月20日
戴冠式 1922年10月15日

全名
出生 1875年10月29日
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランドケント州イーストウェル・パーク
死去 (1938-07-18) 1938年7月18日(62歳没)
ルーマニア王国の旗 ルーマニア王国シナヤペレシュ城
埋葬 1938年7月24日[1]
ルーマニア王国の旗 ルーマニア王国クルテア・デ・アルジェシュクルテア・デ・アルジェシュ大聖堂(遺体)
ルーマニア王国の旗 ルーマニア王国バルチク宮殿(心臓)
1940年
ルーマニア王国の旗 ルーマニア王国ブラン城(心臓)
結婚 1893年1月10日
配偶者 ルーマニア王フェルディナンド1世
子女
家名 サクス=コバーグ=ゴータ家
父親 エディンバラ公アルフレッド
母親 マリア・アレクサンドロヴナ
宗教 イギリス国教会ルーマニア正教会バハイ教
サイン
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マリア王太后を記念したメダル

マリア・ア・ロムニエイルーマニア語: Maria a României, 1875年10月29日 - 1938年7月18日)は、ルーマニアフェルディナンド1世の王妃。英語名はマリー・オブ・エディンバラMarie of Edinburgh)。

幼年期

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エディンバラ公アルフレッド(ヴィクトリア女王の次男。のちザクセン=コーブルク=ゴータ公アルフレート)とその妃であるロシア皇女マリアの長女として、ケント州で生まれた。全名はマリー・アレクサンドラ・ヴィクトリア(Marie Alexandra Victoria)。妹にヘッセン大公妃/ロシア大公妃ヴィクトリア・メリタ、ガリエラ公爵夫人ベアトリスらがいる。

若い頃、マリーはヨーロッパの王族と政略結婚させるものと考えられていた。彼女は従兄ジョージ・オブ・ウェールズ(のちのジョージ5世)と相思相愛で、結婚の申し込みも承諾していた。マリーの父とジョージの父アルバート・エドワード王太子(のちのエドワード7世)はどちらもこの結婚を歓迎していた。しかし、マリーの母マリアはイギリス王室をひどく軽蔑しきっていたため、ジョージとの結婚は成立せず、イギリス国外の王家との縁組みが考えられた。

結婚

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1893年、父アルフレッドがザクセン=コーブルク=ゴータ公となる数ヶ月前、マリーはルーマニア王太子フェルディナンド(ルーマニア王カロル1世の甥)と結婚した。マリーとフェルディナンドには3男3女が生まれたが、結婚生活は不幸だった。マリーと長年文通した腹心の友、アメリカ人舞踏家ロイ・フラーは、「大嫌いな男。嫌悪感がつのる」とマリーが夫について触れていたことをのちに暴露している。

長男カロルと長女エリザベタの父親は間違いなくフェルディナンドであろうが、マリア王女とニコラ王子の父親は不明で、ロシア大公ボリス・ウラジーミロヴィチ[2]の名が挙げられている。三女イレアナと三男ミルチャは、マリーが長年の愛人だったバルブ・シュティルベイ英語版[3]と出会ってから生まれている。歴史家はイレアナ王女の正統性は疑問だとし、ミルチャ王子は愛人の子としている(両親とも青い目の持ち主だったが、ミルチャは茶色の目だった)。

1914年、カロルの死によりフェルディナンドとともに国王・王妃となったが、第一次世界大戦のために戴冠は1922年まで待たねばならなかった。マリアは熱烈なルーマニア愛国主義者となり、意志が弱くて周囲に流されやすい夫の代わりにルーマニアを統治した、とまで言われた。戦争中は赤十字社にボランティアで加わり、負傷者の看護をした。1917年、国土の半分はドイツ軍により踏みにじられ、マリアと軍の助言者グループは、ロシアに与するよりもルーマニア軍は独立してドイツ・ロシアの両方と戦うべきだという選択をした。これには、アメリカから資金援助が得られた。

戦後、ヴェルサイユ講和会議で、ルーマニアはルーマニア語を話す住民のいる地域を統合する「大ルーマニア」実現のため、国際的なルーマニアの顔としてマリアをフランスへ送り込んだ。「戦士王妃」の登場を国際メディアは熱狂的に迎え、その結果ルーマニアは戦前よりも国土を4割も増やすことに成功した。トランシルヴァニアブコヴィナの一部に等しいベッサラビア、及びヴォイヴォディナである。

息子との確執

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フェルディナンドとマリアの長男カロル(後のカロル2世)は、父親と生涯を通じて断絶状態にあった。マリアとカロルは深い親子の結びつきを保っていたが、これものちにマリアが愛人シュティアベイ公との関係を続けていることを知ったことから、悪化した。マリアは、カロルが自身で花嫁を選ぶより、母親の自分がふさわしい女性を外国王家から見つけたいと考えていた。ところがカロルはパリで、母の友人ロイ・フラーに愛人マグダ・ルペスクと親密にしているところを見られてしまった。2人は、フラーとマリアの友人関係に気づいていなかった。フラーはすぐさまマリアにこのことを知らせたが、カロルとマグダを引き離すのに失敗した。王位についたカロルは母の忠告を退け、断絶は決定的となった。

1927年の夫の死後、ルーマニアに残ったマリアは著作と回顧録を執筆した。彼女は1938年に亡くなり、クルテア・デ・アルジェシュ大聖堂(16世紀建立、アルジェシュ地方)の夫の隣に葬られた。マリアの遺志により、彼女の心臓はバルチクバルチク宮殿(マリアが建設させた)の納骨堂に納められた。1940年、バルチク宮殿とドブロジャ南部英語版クラヨーヴァ条約によりブルガリア王国に返還されると、王妃の心臓はブラン城に移送された。

晩年にバハイ教に改宗していたことが明らかにされた。

文筆

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1917年にマリアが書いた物語 Povestea neastâmpăratei Kildeen(英語:The Story of Naughty Kildeen、英版発行は1922年)が刊行。

日本では『わし姫物語』大槻憲二訳(講談社 (世界名作童話) 、1946年)で児童出版されたが絶版となっていた。2008年8月、『わしといたずらキルディーン』(著者名はマリー女王となっている。長井那智子訳、春風社ISBN 9784861101533)のタイトルで新訳出版された[4]。2012年10月に『わし姫物語』(著者名はマリー王妃)のタイトルで集英社みらい文庫で再刊された[5]

子女

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脚注

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  1. ^ United Press (19 July 1938). “Roumanian Queen to Lie in State at Son's Palace”. Delaware County Daily Times (Beaver and Rochester, Penn.): p. 12 
  2. ^ ロシア大公ウラジーミル・アレクサンドロヴィチマリア・パヴロヴナの三男で母方の従弟。プレイボーイで有名だった。
  3. ^ 19世紀中頃にワラキア公となったバルブ・ディミトリエ・シュティルベイ英語版の孫で、ワラキア王子の称号を保有していた。1927年にルーマニアの首相を務め、また1944年、ルーマニアと連合国との休戦協定の際、特命全権大使としてモスクワに赴き、条約に署名した一人である。
  4. ^ 「わし姫物語」新訳に/皇后さまも「よいご本」 | 全国ニュース | 四国新聞社(2008年12月16日付) - 2021年1月19日閲覧
  5. ^ わし姫物語 | 集英社みらい文庫(2021年1月19日閲覧)
マリア

1875年10月29日 - 1938年7月18日

先代
エリザベータ
ルーマニア王国の旗 ルーマニア王国王妃
1914年10月10日 - 1927年7月20日
空位
次代の在位者
アンヌ・アントワネット・ド・ブルボン=パルム
受賞や功績
先代
ウィリアム・スプラウル
タイム誌の表紙を飾った人物
1924年8月4日
次代
ジョン・パーシング