フィリップ・アンリ・ド・セギュール
セギュール侯爵フィリップ・アンリ(フランス語: Philippe Henri, marquis de Ségur、1724年1月20日 パリ - 1801年10月3日 パリ)は、フランス王国の軍人。1783年にフランス元帥に叙されたほか、1780年から1787年までフランスの陸軍卿を務めた。
生涯
[編集]アンリ・フランソワ・ド・セギュール伯爵とアンジェリーク・ド・フロワシーの息子として、1724年1月20日にパリで生まれた[1]。1742年に歩兵連隊の指揮官に任命され、父の部下としてオーストリア継承戦争に参戦、イタリアとボヘミアを転戦した[1]。1746年10月のロクールの戦いで負傷、1747年のラウフフェルトの戦いで片腕を失った[1]。1748年に父の後を継いでシャンパーニュとブリーのlieutenant généralになり、1753年にはフォワ伯領の知事に任命された[1]。七年戦争では1757年のハステンベックの戦い、1758年のクレーフェルトの戦い、1759年のミンデンの戦いに参戦した後、1760年のクローステル・カンペンの戦いで捕虜になった[1]。
1775年にフランシュ=コンテの政府で才能を示したことで1780年にジャック・ネッケルの下の陸軍卿に任命され、1787年まで務めた[1]。彼は1783年に参謀総長を恒常職に定め、兵営と陸軍病院についての規定などの貢献をしたが、一方で任期中には士官任命の条件に貴族の血が4分の1流れていることを定める勅令が発された(セギュール自身は勅令に反対したとされる)[1]。同年にはフランス元帥に叙された[1]。
フランス革命の恐怖政治期(1793年 - 1794年)にラ・フォース刑務所に投獄され、処刑は免れたが釈放された後は1800年にナポレオン・ボナパルトから年金を受けるまで窮乏した[1]。1801年10月3日、パリで死去した[1]。
家族
[編集]1749年にルイーズ・アンヌ・ド・ヴェルノン(Louise Anne de Vernon)と結婚、2男をもうけた。
- ルイ=フィリップ・ド・セギュール(1753年 - 1830年) - セギュール伯爵
- ジョセフ=アレクサンドル・ピエール・ド・セギュール(1756年 - 1805年) - セギュール子爵
脚注
[編集]公職 | ||
---|---|---|
先代 アレクサンドル・マリー・レオノール・ド・サン=モーリス・ド・モンバレー |
フランス陸軍卿 1780年 - 1787年 |
次代 ルイ=シャルル=オーギュスト・ル・トノリエ・ド・ブルトゥイユ |