ハインリッヒ・ヴィーラント
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Heinrich Wieland ハインリッヒ・ヴィーラント | |
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ハインリッヒ・ヴィーラント(1927) | |
生誕 |
Heinrich Otto Wieland 1877年6月4日 ドイツ帝国 プフォルツハイム |
死没 |
1957年8月5日 (80歳没) 西ドイツ シュタルンベルク |
国籍 | ドイツ |
研究機関 |
ミュンヘン工科大学 アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン |
出身校 | ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン |
博士課程 指導学生 | ロルフ・フーズゲン |
主な業績 | 胆汁酸 |
主な受賞歴 | ノーベル化学賞(1927) |
プロジェクト:人物伝 |
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ハインリッヒ・オットー・ヴィーラント(Heinrich Otto Wieland, 1877年6月4日 - 1957年8月5日)はドイツ・プフォルツハイム出身の化学者。1927年に胆汁酸の研究でノーベル化学賞を受賞した。
生涯
[編集]1877年6月4日にドイツのプフォルツハイムで生まれる。父テオドール・ヴィーラント(1846-1928)は、薬剤師で化学において博士号を持っているほか、プフォルツハイムに金銀精錬所を所有していた[1]。ヴィーランドは、ベーリンガーインゲルハイムの創設者であるアルバート・ベーリンガーの妻であるヘレン・ベーリンガーの従兄弟だった。1915年から1920年末まではベーリンガーインゲルハイムの顧問を務め、この間に同社初の科学部門を設立した。娘エヴァ・ヴィーラントは1937年5月14日にヴィーラントの助手となるフェオドル・リュネンと結婚している[1]。
1914年、有機化学の助教授となり、ミュンヘンの国立研究所の有機部門の責任者となった。
1917年にカイザー・ヴィルヘルム物理化学・電気化学研究所に勤務した。1913年からミュンヘン工科大学、1921年からルードヴィヒ・ガッターマンを継いでフライブルク大学、1925年からミュンヘン大学の化学科の教授を歴任した。
ナチス・ドイツの時代にはニュルンベルク法(優生学に基づく法律)の適用からユダヤ人(特に学生)を個人的な顧問として保護した。その中には白いバラで運動を行ったハンス・コンラート・ライペルトがいる。ミュンヘンで没。
受賞歴
[編集]- 1927年 - ノーベル化学賞
- 1955年 - オットー・ハーン物理・化学賞
脚注
[編集]- ^ a b Vaupel, Elisabeth (2007). “Interconnections and independence: Heinrich Wieland (1877-1957) and his era”. Angewandte Chemie (International Ed. in English) 46 (48): 9154–9179. doi:10.1002/anie.200702255. ISSN 1521-3773. PMID 18061927 .
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]カテゴリ:
- 19世紀ドイツの化学者
- 20世紀ドイツの化学者
- ドイツのノーベル賞受賞者
- ノーベル化学賞受賞者
- 王立協会外国人会員
- 国立科学アカデミー・レオポルディーナ会員
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- ゲッティンゲン科学アカデミー会員
- バイエルン科学アカデミー会員
- ハイデルベルク科学アカデミー会員
- アメリカ芸術科学アカデミー会員
- 米国科学アカデミー外国人会員
- ソビエト連邦科学アカデミー外国人会員
- 日本学士院客員
- プール・ル・メリット勲章平和章受章者
- ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンの教員
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- 1877年生
- 1957年没