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ジーン・カー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジーン・カー
誕生 ブリジット・ジーン・コリンズ
(1922-07-10) 1922年7月10日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ペンシルベニア州スクラントン
死没 2003年1月5日(2003-01-05)(80歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューヨーク州ホワイト・プレインズ
職業 著作家劇作家
国籍 アイルランド系アメリカ人
主な受賞歴 トニー賞(1961年、King of Hearts=共作)
配偶者 ウォルター・カー
ウィキポータル 文学
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ジーン・カー(Jean Kerr、1922年7月10日[1][2] - 2003年1月5日)は、アイルランド系アメリカ人著作家劇作家で、ペンシルベニア州スクラントンに生まれ、ユーモアな内容でベストセラーとなった『ひな菊を食べないで (Please Don't Eat the Daisies)』や、戯曲『King of Hearts』(エリナー・ブルーク (Eleanor Brooke) との共作)、『Mary, Mary』などの作者として知られた。

私生活

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彼女は、ブリジット・ジーン・コリンズ (Bridget Jean Collins) として、父トム (Tom) と母キティ (Kitty) 夫妻の間にペンシルベニア州スクラントンで生まれ、スクラントンのエレクトリック・ストリート (Electric Street) で育ち、後に彼女のユーモラスな短編「When I was Queen of the May」の主題となったメアリウッド・セミナリー(Marywood Seminary:スクラントン・プレパラトリー・スクール英語版の前身)に学んだ。彼女はスクラントンのメアリウッド・カレッジ(Marywood College:スクラントン大学英語版の前身)で学士号を取得し、さらにワシントンD.C.アメリカ・カトリック大学英語版の大学院に進んで、当時その教授であったウォルター・カー英語版と出会った。1945年に修士号を取得して終了した彼女は、カーと結婚した[1]。その後、夫カーはニューヨークで有名な演劇評論家となり、夫妻の間には、クリストファー (Christopher)、双子のコリン (Colin) とジョン (John)、ギルバート (Gilbert)、グレゴリー (Gregory)、キティ (Kitty) と、6人の子どもたちが生まれた。カー家は、ニューヨーク州ニューロシェルに家を買い、ジーンはそこで『King of Hearts』を執筆し、その後さらにニューヨーク州ラークモント英語版に転居した[3][4]

1996年には、夫ウォルター・カーに先立たれた[1]

彼女は、2003年にニューヨーク州ホワイト・プレインズ肺炎のために死去した。

職歴

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1946年、カー夫妻は初めて共作した『Song of Bernadette』(フランツ・ヴェルフェルの小説『ベルナデットの歌 (The Song of Bernadette)』の舞台化)をブロードウェイで上演し、1948年にはジーン・カーが単独で執筆した『Jenny Kissed Me』がブロードウェイで上演されたが、いずれも商業的には成功しなかった[1]。しかし、再び夫婦で共作した1949年のレビュー『Touch and Go』はヒット作となった。以降、ジーン・カーは、単独で、あるいは夫や、他の作家との共作によりヒット作に関わっていく[1]1958年には、夫との共作により、短期間ながらブロードウェイでも上演されたミュージカル・コメディで、サイレント映画の初期を舞台にした『Goldilocks』を執筆した。彼女は大いに成功した戯曲を数本書き、その中にはエリナー・ブルークとの共作でトニー賞を受賞した『King of Hearts』や、通算1,572回上演された喜劇Mary, Mary』も含まれていた。『King of Hearts』は1957年に映画化されたすてきな気持 (That Certain Feeling)』となった[5][6]。また、1961年に初演された『Mary, Mary』の上演記録は、1960年代における作品としては屈指の長さとなった[1]

カーは、数多くのユーモラスなエッセイを雑誌に書いており、自分の家族のこともしばしば取り上げていた。そうしたエッセイを集めた本も何点もあり、ベストセラーとなった。彼女の最も知られた本は、ラークモントでの郊外の生活を、都会からの転居者の視点からユーモラスに描いた『ひな菊を食べないで』(1957年)である[1]。この本は、全国的なベストセラーになり、ドリス・デイデヴィッド・ニーヴン主演の『ママは腕まくり (Please Don't Eat the Daisies)』として1960年に映画化され、さらに、1965年から1967年にかけて放映されたパット・クロウリー英語版主演のシチュエーション・コメディであるテレビ版『Please Don't Eat the Daisies』のもととなった[1]

おもな著書

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戯曲

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h Berkvist, Robert (2003年1月7日). “Jean Kerr, Playwright and Author, Dies at 80”. The NewYork Times. https://www.nytimes.com/2003/01/07/theater/jean-kerr-playwright-and-author-dies-at-80.html 2020年2月14日閲覧。 
  2. ^ 一部の情報源では1923年とされているが、社会保険死亡登録簿英語版によれば1922年である。
  3. ^ The Theater: New Play in Manhattan Archived 2012-07-17 at Archive.is, April 12, 1954
  4. ^ Silberstein, Judy; Eisenberg, Paula (2003年3月18日). “"Please Don't Eat the " House on the Market: An Intimate Tour”. Larchmont Gazette (Lynxcom New Media). http://www.larchmontgazette.com/2003/features/20030318kerrhouse.html 2010年5月7日閲覧。 
  5. ^ That Certain Feeling (1956) - Full Cast & Crew - IMDb”. IMDb. 2020年1月21日閲覧。
  6. ^ すてきな気持 - 映画.com
  7. ^ Our Hearts were Young and Gay. Woodstock, Illinois: The Dramatic Publishing Company. (1946). ISBN 0-87129-247-5. https://books.google.com/books?id=cvN6nsf1-YwC&pg=PA1&dq=%22Our+Hearts+Were+Young+and+Gay%22#v=onepage&f=false 2019年1月10日閲覧。 

外部リンク

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