ジョン・フレデリック・ランプ

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肖像(メゾチント

ジョン・フレデリック・ランプ(John Frederick Lampe、1703年? - 1751年7月25日)は、ドイツ出身の18世紀イギリス音楽家

生涯[編集]

ザクセン生まれとされるが、渡英する以前についてはあまりよくわかっていない。墓碑銘から生年は1703年ごろと推定されている[1]。ドイツ語名はヨハン・フリードリヒ・ランペだった[2]ヘルムシュタットで音楽を学んだ[1][2]1725年ごろに渡英し、歌劇場でファゴット奏者として活動した[1]

1730年ごろにコヴェント・ガーデン劇場支配人のジョン・リッチと契約してパントマイム劇などの作曲家として活動した[1]

1732年にはトマス・アーンによって英語のオペラを公演するイギリス・オペラが創始され、脚本家のヘンリー・ケアリー (Henry Carey (writer)とともにランプも参加した。イギリス・オペラは同年3月のランプのオペラ『アミーリア』によって始まった[3]。イギリス・オペラは当時イタリア・オペラの興業を行っていたヘンデルのライバルとなったが[3]、英語オペラの定着には至らなかった[2]

1737年にケアリーの脚本によるバーレスク・オペラ『ウォントリーの竜』 (de:The Dragon of Wantleyを作曲し、コヴェント・ガーデンで上演された。この作品は『ベガーズ・オペラ』よりも多い69回の上演回数を数える大ヒット作品になった[4]。翌1738年には続編『マージェリー』を上演したが、こちらは成功しなかった[5]

1738年にランプはソプラノ歌手のイザベラ・ヤングと結婚した[2]。夫人はトマス・アーン夫人でソプラノ歌手のセシリアの妹にあたる。

1740年にはパントマイム『オルフェウスとエウリディーチェ』を作曲し、ふたたび48回の上演を数える人気を得た[2]

ランプは晩年ジョン・ウェスレーチャールズ・ウェスレーの兄弟とも親しくなり、メソジストになって、そのための信仰歌を作曲している[2]

1748-1749年ごろにダブリンの劇場に移り、1750年にはエディンバラのキャノンゲート劇場に移った。1751年にエディンバラで没し、キャノンゲート教会墓地に埋葬された[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 英国人名事典
  2. ^ a b c d e f 高際 (2014), p. 14.
  3. ^ a b ホグウッド (1991), p. 180-181.
  4. ^ ホグウッド (1991), pp. 252–253.
  5. ^ 高際 (2014), p. 23.

参考文献[編集]

  • James Cuthbert Hadden, “Lampe, John Frederick”, Dictionary of National Biography, 32, pp. 29-30 英国人名事典
  • クリストファー・ホグウッド 著、三澤寿喜 訳『ヘンデル』東京書籍、1991年。ISBN 4487760798 
  • 高際澄雄「バーレスクオペラ『ウォントリーの竜』における詩と音楽」『宇都宮大学国際学部研究論集』第37号、13-28頁、2014年https://hdl.handle.net/10241/00003869