エミール・ヤーコプ・シンドラー

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エミール・ヤーコプ・シンドラー
Emil Jakob Schindler
誕生日 1842年4月27日
出生地 オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国 ウィーン
死没年 (1892-08-09) 1892年8月9日(50歳没)
死没地 オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国
運動・動向 情趣的印象主義
影響を与えた
芸術家
カール・モル
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シンドラーの墓

エミール・ヤーコプ・シンドラードイツ語: Emil Jakob Schindler1842年4月27日 - 1892年8月9日)は、オーストリアの画家。情趣的印象主義の中心人物[1]。娘アルマ・シンドラーはグスタフ・マーラーの妻となった(=アルマ・マーラー[2]

略歴[編集]

ウィーンの南の小さな村フィッシャメント (Fischamend) で17世紀から続く綿糸加工職人 (cotton spinning-mill operators) の家に生まれた。父親を4歳で亡くし母親とプレスブルク(ブラチスラヴァ)に移り、3年後に母親はハンガリー人の軍人と再婚した。

シンドラーの少年期についてはあまり知られていないが1848年頃に学校に入り、ピアノを習った。軍人になる教育を受け、1857年に陸軍に入隊し、第二次イタリア独立戦争ソルフェリーノの戦い(1859年)に参加しているが、1860年には軍を辞め、ウィーン美術アカデミーに入学し、風景画家、アルベルト・ツィンマーマンに学んだ[3]メインデルト・ホッベマヤーコプ・ファン・ロイスダールといった17世紀のオランダの巨匠たちの作品から影響を受けた。1873年には事業家の援助を受けて、ベネツィアダルマチアを旅した。フランスやオランダも後に訪れた[3]

1864年の春、22歳でウィーンの展覧会に参加し、作品が売れるようになり、ウィーンのランドストラーセ (Landstraße) に住居を持った。2年後、画家のハンス・マカルトなど多くの芸術家が住んでいたヴィーデン地区に移った。義理の父親が亡くなり、母親と義理の妹と暮らすようになった。

余暇に音楽活動を行い、音楽の教師から紹介されたドイツ人女性と知り合い1879年に結婚した。その夏、作曲家グスタフ・マーラーの妻となるアルマが生まれたが妻との関係はよくなかった。

1881年に、Reichel-Preisを受賞し、賞金を得た[4]。受賞により絵の顧客も増え生活は安定した。1885年にニーダーエスターライヒ州のプランケンベルク城(Castle Plankenberg)を借りて、夏を過ごすようになり、多くの芸術家が集まる場所にした。弟子にはマリー・エグナー(Marie Egner)やオルガ・ヴィジンガー=フローリアン(Olga Wisinger-Florian)といった女性画家もいた。1887年にオーストリア皇太子ルドルフの依頼で、ダルマチアやケルキラ島の海岸風景を描くことになった。これは皇太子の企画した24巻の事典、「The Austro-Hungarian Monarchy in Word and Picture」に掲載された[4] 。1887年に美術アカデミーの名誉会員に選ばれた[3]

ギャラリー[編集]

出典[編集]

  1. ^ 西川 2008, p. 189.
  2. ^ ホフマン(2014) p.161
  3. ^ a b c Friedrich Pollak. (1908), “Schindler, Emil Jakob” (ドイツ語), Allgemeine Deutsche Biographie (ADB), 54, Leipzig: Duncker & Humblot, pp. 16–17 
  4. ^ a b G. Frodl: Schindler, Emil Jakob. In: Österreichisches Biographisches Lexikon 1815–1950 (ÖBL). Band 10, Verlag der Österreichischen Akademie der Wissenschaften, Wien 1994, ISBN 3-7001-2186-5, S. 148 f. (Direktlinks auf S. 148, S. 149).

参考文献[編集]

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