エドゥアール・ヴュイヤール
エドゥアール・ヴュイヤール Édouard Vuillard | |
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生誕 |
1868年11月11日 フランス帝国、キュイゾー |
死没 |
1940年6月21日 (71歳没) フランス共和国、ラ・ボール |
国籍 | フランス |
著名な実績 | 画家・装飾家・版画家 |
運動・動向 | ナビ派 |
エドゥアール・ヴュイヤール(Édouard Vuillard, 1868年11月11日 - 1940年6月21日)は、19世紀-20世紀のフランスの画家。
モーリス・ドニ、ピエール・ボナールらとともにナビ派の1人に数えられる。ヴュイヤールの画面は、他のナビ派の画家よりもさらに平面的、装飾的傾向が顕著である。室内情景など、身近な題材を好んで描き、自ら「アンティミスト」(「親密派」という程度の意味)と称した。生涯独身を通し、酒もたしなまなかったヴュイヤールの絵画は、その渋い色調ともあいまって、穏やかな人柄を彷彿とさせる。晩年の1937年にはパリのシャイヨー宮の室内装飾を担当している。日本美術に影響を受け、日本風と西洋絵画を融合した屏風絵なども多く描いた[1][2]。
生涯
[編集]1868年、ソーヌ=エ=ロワール県キュイゾーに生まれる。その後パリに移る。リセ・コンドルセで学んでいたときにケル・グザヴィエ・ルーセル、モーリス・ドニらと出会った。
1885年にリセ・コンドルセを卒業し、ルーセルの助言で、ルーセルとともに画家ディオジェーヌ・マイヤールの工房で絵画を学んだ。1886年から1888年はアカデミー・ジュリアンで学んだ。1887年に、国立高等美術学校(エコール・デ・ボザール)の入学試験に合格した。1890年までにピエール・ボナール、ポール・セリュジエと知り合い、「ナビ派」のメンバーになった。画廊「Le Barc de Boutteville」で開かれた展覧会に出展し、後にボナールやモーリス・ドニとスタジオを共有した。1890年代には「作品座」(Théâtre de l'Œuvre)の美術部門で働いた。
1898年にヴェネツィアとフィレンツェを訪れたのを初め、ロンドンやイタリア、スペインを訪れた。1901年からアンデパンダン展に出展し、1903年からにサロン・ドートンヌ出展した。装飾画や雑誌の挿絵も描いた。
代表作
[編集]- ランプの下で(1892年)サントロペ、アノンシアード美術館
- 室内、画家の母と姉(1893年)ニューヨーク近代美術館
- 求婚者、あるいは仕事台のある室内(1893年)マサチューセッツ州ノーサンプトン、スミス大学美術館
- 装飾パネル連作:公園(1894年)パリ、オルセー美術館;ブリュッセル、ベルギー王立美術館;オハイオ州、クリーブランド美術館;個人蔵
- 装飾パネル連作:アルバム(1895年)ワシントン、ナショナル・ギャラリー;ニューヨーク、メトロポリタン美術館;ニューヨーク近代美術館;個人蔵(2点)
- 6人の人物のいる室内(1897年)チューリッヒ美術館
- フレシネ夫人(1931年)
ギャラリー
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『自画像』(1889年)ナショナル・ギャラリー (ワシントン)
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『朝食』(1894年)
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『縞模様のブラウス』(1895年)ナショナル・ギャラリー (ワシントン)
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『室内』(1902年)ダラス美術館
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5枚組の屏風作品『ヴァンティミーユ広場』(1911年)ナショナル・ギャラリー (ワシントン)
脚注
[編集]- ^ Introduction: Tastemaking in the Age of Art Nouveau: The Role of Siegfried BingGabriel P. Weisberg, Nineteenth-Century Art Worldwide, 2005
- ^ Edouard Vuillard, The Folding ScreenNational Gallery of Art, Washington, DC
参考文献
[編集]- 『Vuillard / エドゥアール・ヴュイヤー』ステュアート・プレストン解説、木島俊介訳、東京 : 美術出版社、1974年
- 『ボナール、ヴュィヤール、ルーセル展』(展覧会カタログ) 東京 : ウィルデンスタイン・東京、1974年
- 『ヴュイヤール展』(展覧会カタログ) 村木明編集、東京 : 読売新聞社、1977年
- 『ヴュイヤール』(展覧会カタログ)ギャルリー・ところ編、 ギャルリー・ところ、1979年